昭和12年5月、「白鶴翁」嘉納治兵衛が催した茶会「白鶴山荘春季美術館釜」の飾付けに、鷹の自在置物が用いられていたことを、当時の『茶道月報』の記事が伝えている。
『茶道月報』(319),茶道月報社,[1937-07]
https://dl.ndl.go.jp/pid/11208215/1/52
「白鶴山荘春季美術館釜」は「白鶴翁自ら銘器をひつ提て美術館前の山荘に於て二日間在釜される例になつて居る」といい、「それで此春は去る五月十五、六の両日にも盛大に催された」とある。
鷹の自在置物が用いられた本席の飾付けは以下のような内容であった。
床 水車躍鯉楓図 一鳳筆
花生 乾隆官窯黄地壺
花 天女花 百合
書院 堆朱鐘鬼〔ママ〕彫香合
棚上 正倉院御物寫
弾弓 竹絃 矢二本
奈良 森川杜園作
木彫武内宿禰像
同 杜園作
棚下 鉄製鷹 唐木枠の上にとまって居る置物 明珍作
「鉄製鷹」について、「鷹の置物は名工明珍の作であって例の如く羽、尾、首など自由自在に動くようになって居る」と記されていることから、自在置物であったことが知れる。鯉、鍾馗、弓矢などを表した作とともに飾られていることからわかるように、この飾付けは五月人形の趣向であった。飾付けに合わせて用いられた、それぞれ銘が金剛杖、弁慶の茶杓と蓋置、法螺貝を写した道八作の鉢や山道盆なども、五月人形のモチーフにもされる「勧進帳」の牛若、弁慶を表している。
第二次大戦後は長く忘れられ、近年では明治期の輸出向け工芸品として注目されることが多い自在置物だが、昭和初期において、著名な実業家でもある嘉納治兵衛の催した茶会で用いられた記録があることは興味深い。当時、少なくとも茶人のように古美術品に親しむ層には「明珍」による可動の作品が広く知られていたことが、「例の如く羽、尾、首など自由自在に動く」と書かれていることから窺える。白鶴美術館と同じく神戸の香雪美術館は、茶人でもあった村山龍平の収集品を収蔵する美術館であるが、大阪で活動した板尾新次郎の作とみられる鷹の自在置物を所蔵している。板尾新次郎は山中商会とも関わりがあったとみられるが、山中吉郎兵衛、村山龍平、嘉納治兵衛はいずれも関西の実業家を中心とする茶の湯の会「十八会」の会員であった。「白鶴山荘春季美術館釜」で用いられた「鉄製鷹」は「明珍作」となっているが、板尾新次郎の作であった可能性もあるように思われる。
明治天皇が自在置物に興味を惹かれていたことを記した、沢田撫松編『明治大帝』(帝国軍人教育会 大正元年)中の「妙珍作の龍と蟹」という逸話について「自在置物を好んだ明治天皇」で述べたが、この逸話は、明治6年のウィーン万国博覧会、同9年のフィラデルフィア万国博覧会に派遣されるなど早くから日本の美術、工芸と関わってきた塩田真の談話に基づくものとみられることがわかった。
この談話は、『研精画誌』第65号(美術研精会事務所 大正元年)に「先帝と美術」と題してして掲載されている。「妙珍作の龍と蟹」とほぼ同じ内容のエピソードもあるが、それにはない情報もいくつか含まれている。
まず、蟹の自在置物を明治天皇に献上した人物が「骨董商の若井」となっている。これはおそらく起立工商会社の副社長も務めた若井兼三郎であろう。この蟹は若井が二百円で買ったもので、外国人に売れば六百円にはなるものであったという。若井は献上の際に購入代金分の二百円の目録を賜ったと記されているが、これは明治15(1882)年5月24日、浅草本願寺で開催された観古美術会への明治天皇の行幸に際し、龍池会から「明珍作鐵製蟹置物」が献上された折に「龍池会に金二百円を賜ひて明珍作鐵製蟹置物の献上に酬い」たという記録(1)があることと一致する。
明治天皇が松平確堂の「七寸位の鐵の打出しで伸縮龍と云はれる」ものを気に入り、献上されることになったという話の中では、「是れから頻りと上方邊でこの似せ物が出来て外國人など大分やられた様子だつた」と語られている。これはシカゴ万国博覧会などに自在置物を出品した板尾新次郎が大阪で活動し、その作品の多くが明珍の作として売られたと伝わっている(2)ことと符合しており、興味深い。京都の高瀬好山の作品も、鉄製のものはおそらく明珍の作として売られたことも多かったであろう。この話はこれらの事情を反映したものとも思われる。
また、山田宗美にも触れている。明治35年の日本美術協会展覧会への行幸の際、明治天皇は特に山田宗美の鶏の雌雄に目を止め、実際に手にとってその軽さを確かめたという。自在置物と同様に鍛鉄の技術を用いた作品として山田宗美の作品に関心を寄せていたことが窺える。
「先帝と美術」の内容は「自在置物を好んだ明治天皇」で指摘した疑問点もそのままではあるが、このように往時の自在置物をめぐる状況の一端を覗かせるものといえるだろう。
註
以前のブログ記事「板尾新次郎と1900年パリ万博」は、板尾新次郎の作品の1900年パリ万国博覧会への出品についてのものであったが、訂正があり未整理なものになっていた。その出品作に博覧会事務局から製作費の補助があったことが判明したので、改めて整理してみることにする。
1893年にシカゴ万国博覧会に鷲の自在置物を出品した板尾新次郎(板尾清春)が1900年のパリ万国博覧会に出品した作品は、同博覧会公式カタログ “Catalogue général officiel, Exposition internationale universelle de 1900” に以下の二点が確認できる(1)。
第十五部第九十四類 Itao (Kiyoharu), à Osaka. - Argent repoussé : Perroquet.
第十五部第九十七類 Itao (Kiyoharu), à Osaka. - Fer incrusté d’or : Paon.
金銀細工や七宝の出品区分である第十五部第九十四類に出品された前者は、「銀製の打ち出しの鸚鵡」で、星野錫編『美術画報 臨時増刊 巴里博覧会出品組合製作品』(画報社 1900年1月)に掲載されている銀製の鸚鵡がこの作品であろう。板尾新次郎は明治28年の第四回内国勧業博覧会に、この掲載作品と同様の作品を出品し、妙技三等賞を受賞している(2)。
一方、後者は金の象嵌を施した鉄製の孔雀の作品であり、出品された第十五部第九十七類は青銅、鋳鉄、打ち出しの金工作品のための出品区分であった。『官報』第5638号「巴里萬国大博覧会本邦出品者受賞人名」(明治35年4月24日)で銀牌受賞が伝えられている「金象眼置物」は第十五部第九十七類となっており、この作品であったと考えられる。この鉄製の孔雀は、博覧会事務局が実施した製作補助金の支給を受けた作品とみられる。「先ツ圖案ヲ提出セシメ、漸次ニ補助金額ヲ定メ、製作ヲ命シタルモノ」として、「板尾新二郎」(ママ)の鉄製の「孔雀ノ圖置物」が『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告 上』(農商務省 明治35年)に記載されている(3)。
『MUSEUM 東京国立博物館美術誌』152号(1963年11月)所載の下村英時「奇工板尾新次郎伝ー恐るべき伝統技術の闘争史ー」には板尾新次郎は鸚鵡の他に梟や孔雀の作品も制作していたとの記述がある。板尾新次郎による「孔雀ノ圖置物」と大英博物館が所蔵する鉄製の孔雀の自在置物との関連が注目されるほか、銀製の鸚鵡は賞を逃し、鉄製の孔雀が受賞作となったことは、両者の素材の差によるものなのかも興味深いところである。
(註)
第四回内国勧業博覧会審査報告 第二部』(第四回内国勧業博覧会事務局 明治29年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801947/70
鍛金の作品では板尾新次郎のほかに、黒川栄勝「銀製雌雄丹頂鶴置物」、山田長三郎(山田宗美)「蓮ノ圖花瓶」がいずれも五百円の補助金を得ている。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801822/416
明珍宗春の作とされる鷲
1893年にシカゴ万国博覧会に鷲の自在置物を出品した板尾新次郎(板尾清春)は1900年のパリ万国博覧会にも作品を出品しています。星野錫編『美術画報 臨時増刊 巴里博覧会出品組合製作品』(画報社 1900年1月)には銀製の鸚鵡の自在置物が掲載されていますが(画像)、他の国内の資料では「置物」あるいは「金象眼置物」という表記が確認できるのみです(1)。
そこでインターネット公開されているパリ万国博覧会公式カタログ “Catalogue général officiel, Exposition internationale universelle de 1900” にあたってみたところ、板尾新次郎の出品についての記載は以下のとおりで、鉄に金象嵌の孔雀の作品が出品されたことがわかります。(2)。
Itao (Kiyoharu), à Osaka. - Fer incrusté d’or : Paon.
この作品が出品された第十五部第九十七類は青銅、鋳鉄、打ち出しの金工作品の出品区分であり、同じ区分にあたるであろう前述の銀製の鸚鵡は記載がないことから出品されなかったとみられます。おそらく板尾新次郎のパリ万国博覧会出品作はこの一点のみであり(追記参照、銀製の鸚鵡の出品記録も確認できます)、同作品が銀牌受賞作であったと考えられます(3)。『MUSEUM 東京国立博物館美術誌』152号(1963年11月)所載の下村英時「奇工板尾新次郎伝ー恐るべき伝統技術の闘争史ー」には板尾新次郎は鸚鵡の他に梟や孔雀の作品も制作していたとの記述があり、パリ万国博覧会出品作もまた自在置物であったものと推測できます。そうであるとすれば、大英博物館が所蔵する鉄製の孔雀の自在置物との関連についてもあらためて注目したいところです。
板尾新次郎は明治28年の第四回内国勧業博覧会に『美術画報 臨時増刊 巴里博覧会出品組合製作品』掲載作と同様のものとみられる銀製の鸚鵡自在置物を出品し、妙技三等賞を受賞しています(4)。国内ですでに高い評価を受けていたにもかかわらず、この銀製の鸚鵡が出品されなかった理由については一考の余地があるでしょう。これまでにもふれてきましたが(5)、海外での高評価から自在置物が日本国内でも美術品として注目されるようになったとき、甲冑師一門「明珍」の技術によるものであることが国威発揚および海外への作品販売における利点として意識されるようになり、結果としてその素材は甲冑と同じ鉄製のままであることが望まれるようになったとみられます。板尾新次郎のパリ万国博覧会出品作が「銀」の鸚鵡ではなく「鉄」の孔雀であった理由もそこにあるとすれば、自在置物の作品に対しては国内での評価とはまた別に、対外的には依然として鉄製であることが求められた可能性が考えられるでしょう。
2018/2/9 追記
金銀細工や七宝の出品区分である第十五部第九十四類に銀製の鸚鵡も出品されていたことを確認しました。
http://cnum.cnam.fr/CGI/fpage.cgi?12XAE54.17/145/100/831/16/830
原文表記は以下のとおり。
Itao (Kiyoharu), à Osaka. - Argent repoussé : Perroquet.
銀の打ち出しの鸚鵡となっています。板尾新次郎は打ち出しによる作品製作が特徴であることや、同じく鳥の作品であることから、鸚鵡の出品があったとすれば鉄の孔雀と同じ区分に出品されているものとの思い込みがありました。
『官報』第五六三八号「巴里萬国大博覧会本邦出品者受賞人名」明治三十五年四月二十四日で銀牌受賞と伝えられている「金象眼置物」は第十五部第九十七類からの出品となっており、鉄の孔雀であったと考えられます。異なる区分で出品された鉄の孔雀と銀の鸚鵡の受賞の有無の差が、本文中で述べたような素材による評価の違いに基づくものかどうかも興味深いところです。
知らなかったのですが、メトロポリタン美術館に鈴木長吉の「鉄製」の鷲の作品があったのですね。頭と爪は鋳造ですが、その他の部分は明珍の作品のように別々に制作した鍛造部品を鋲留めしてあるそうです。無銘ではあるものの、1893年のシカゴ万国博覧会に出品予定であったとのこと(画像は The Metropolitan Museum of Art のオンラインコレクションより)
http://www.metmuseum.org/art/collection/search/22137
少し前のブログ記事でも触れましたが、同年10月21日の"Japan Weekly Mail"の記事に鈴木長吉の工房に鉄製の鷲が置かれているとの記述があります(以下は同記事からの抜粋)。
"Another powerful occupant the same ateliar is an iron eagle, life sized with outstretched wings and wonderfully chiselled plumage. SAITO's flexible necked eagle, now in the World's Fair at Chicago seems to have suggested this work, but the SUZUKI eagle now on view in Irigune cho is happily free from the pigeon-like affinities of the Exposition bird. It is a veritable eagle, fierce, meagre ,alert, and pitiless, just such and bird as SHELLEY conceived "sailing incessantly with clang of wings and scream" in lonely lands."
鈴木長吉の工房を訪れて書かれたこの記事では、シカゴ万国博覧会に出品された"SAITO's flexible necked eagle"、すなわち斎藤政吉出品の板尾新次郎作の鷲自在置物にも言及した上で、鈴木長吉の工房の鷲をそれよりも優れたものとして絶賛しています。"outstretched wings" とあるように翼を広げた姿であるとの記述もあり、メトロポリタン美術館の鷲と同一作品である可能性も考えられるでしょう。
シカゴ万国博覧会に出品されなかったのは、やはり板尾新次郎が出品した鉄製鷲自在置物との競合を避けたからかもしれません。いずれにせよ、この鷲は鈴木長吉に明珍の鉄製の作品が影響を与えたことを示す貴重な現存作品といえるのではないでしょうか。
帝室技芸員でもあった鋳金家・鈴木長吉が自在置物の作品も制作していたことは何度か触れてきましたが(ブログカテゴリ「鈴木長吉」を参照されたし)、明治22年の日本美術協会美術展覧会の出品作に鉄製龍自在置物とみられるものがあることを確認しました。
前年の明治21年の日本美術協会展覧会には古美術品の自在置物の出品が多数ありましたが、その翌年に鈴木長吉が新製品としてこのような異色な作品を出品をしていたことは大変興味深いところです。
明治期の自在置物の博覧会等への出品についての年表を更新しました。
今回追加したのは日本美術協会の明治24年美術展覧会に同会会頭の佐野常民によって出品された「鐵製屈伸蟹鎮紙」。鎮紙という名称ですが、「屈伸」とあることから蟹の自在置物と見てよいでしょう。
「驚きの明治工藝」展グッズにも蟹自在置物ペーパーウェイトがありましたが、ある意味歴史的に正しいものといえるのではないでしょうか。
東京藝術大学大学美術館「驚きの明治工藝」展で見るのを楽しみにしていた作品の一つがこの板尾新次郎の鷹の自在置物でした(過去に板尾新次郎について触れたブログ記事はこちら)。予想通りの精巧な作品であったことに加えて架や架垂、大緒も良好な保存状態であることが確認できました。
パネル展示もされていましたが、『日本美術画報 初編巻五』掲載の日本美術協会明治廿七年春季展覧会に出品されたものと同一かと思われる作品です(下記リンクの東京文化財研究所『美術画報』所載図版データベース参照)。
http://www.tobunken.go.jp/materials/gahou/108946.html
(追記:『日本美術協会報告』【78号 明治27年】に掲載の日本美術協会明治廿七年春季展覧会の受賞記録にはこの鷹の自在置物は存在せず)。
今回実際に作品を見てその優れた観察眼も感じられました。本展での展示を機に板尾新次郎とその作品の研究が進むことを望みます。
東京藝術大学大学美術館で9月7日から開催の「驚きの明治工藝」展を見てきました。
同展には台湾のコレクター宋培安氏のコレクションから130点あまり出品されています。このコレクションは数年前に存在を知ったときから見てみたいと思っていたのですが、こんなに早く日本での本格的な展覧会で目にする機会が訪れたことは望外の喜びでした。
この展覧会の特色の一つに自在置物の優品が多数出品されていることが挙げられます。自在置物としてはおそらく最大の3メートルもの大きさの龍が入場してすぐの場所に吊り下げられており、まずその存在感に圧倒されます。最近でこそ見る機会が増えてきた自在置物ですが、やはりこのコレクションでしか見られない珍しい作品も多く、本当に見ることができて良かったと思います(個人的に大変思い入れのある分野でもありますので)。宋コレクションでも特に収集に力を入れたジャンルではないかと思います。
明治期を中心として自在置物および自在置物と思われる作品の博覧会、展覧会などへの出品記録をまとめてみました(暫定版につき適宜加筆修正していく予定)。
pdf版も作成しました。こちらも随時更新する予定です。
第三回観古美術会への工商会社による出品「鐵製螳螂置物」「銅製蟹置物」追加(2019/11/05)。
(Last updated: 06 Feb. 2021)
福田源三郎『越前人物志』(明治43年)の明珍吉久の項に一部抜粋のあった佐野常民による演説の要領を入手しました。岡部宗久編『内外名士日本美術論』(鼎栄館 明治22年)に収録されています。
この演説は明治21年に龍池会が日本美術協会と改称してから初めて開催された展覧会の褒賞授与式におけるものです。岡倉天心らの海外視察の報告により甲冑師一派明珍の作品の国外での高評価が注目されたとみられるこの展覧会には自在置物を含む複数の明珍の作品が出品されており、佐野常民はその明珍を例にあげて日本美術について語っています。
展覧会に出品された越前松平家伝来の明珍吉久作「魚鱗ノ甲冑」については「其製作ノ妙ナル眞ニ優等ノ美術品ナルハ誰カ之ヲ否ト言ワンヤ而シテ其材料ハ黯黒色ノ鋼鐵ノミ以テ美術品タルノ價位ハ材料ニ關セザルヲ知ルヘキナリ」と述べ、美術品としての価値はその素材の価値によらないという意見を表明し、さらに「美術ハ國光ヲ發揚スルモノナリ國富ヲ増殖スルモノナリ」とした上で、岡倉天心が海外視察において目にしたと思われるサウス・ケンシングトン博物館の明珍作の鷲について「其初ハ尋常一様ノ鋼鐵ナルニ名工ノ手ヲ經テ優逸ノ美術品トナレバ此ノ如キ高價ヲ發ス美術ノ國富ヲ増殖スル實ニ鴻大ナリト謂フヘシ此ノ如キ名品ノ海外ニ出シハ遺憾ナリトハ雖モ之ニ由テ日本美術家明珍ノ名宇内ニ顕レ従テ日本ノ光輝ヲ發揚セシハ一大快事ナラズヤ」と述べており、高価な材料を用いることなく高額な美術品としての評価を得たことに注目していることが窺えます。明珍を「日本美術家」と表現しているところも興味深い点です。
この「サウス・ケンシングトン博物館の鷲」について、この演説では越前松平家の家臣が賜ったものが僅かな金額で売却され、その後に同博物館に高額で購入されたもので「魚鱗ノ甲冑」と同じ作者によるものとしています。しかし、実際にはこの鷲は明珍作と伝えられてきたもののそれを示す銘などはなく、「魚鱗ノ甲冑」の作者である明珍吉久によるものではないとみられます。
佐野常民が両者をともに明珍吉久の作としたことについては以下のような理由が考えられます。"The mechanical engineer. Vols. vii and viii" (1884)には英国人フランシス・ブリンクリー(河鍋暁斎とも交際のあったことが知られる)が3500ドルと評価された「ミョウチン ムネアキ」作の龍の自在置物を所有している、との記述があり、その龍は越前松平家の旧家臣の家から出たものとしています。越前松平家の明珍の作品に関する異なる話を意図的に混同することにより、佐野常民は古美術の海外流出を戒めるとともに、そうして海外に渡った作品は日本の国威を発揚するものにもなり得る、という両面を効果的に語ろうとした可能性が考えられるでしょう。
またこの明治21年の日本美術協会展覧会には明珍吉久作とみられる龍自在置物も出品されています。この展覧会に先立つ明治15年に、同じく明珍吉久作とみられる龍自在置物一点が松平春嶽により明治天皇に献上されており、日本美術協会が皇室との繋がりを強めていったことを考えるならば、海外で高い評価を受けたサウス・ケンシングトンの鷲と明珍吉久を結びつける狙いがあったことも窺えます。
岡倉天心は東京美術学校に鍛金科を新設する際、自在置物をその教育に取り入れようとしたと言われています。天心と自在置物の関係についての資料がまとまったので、とりあえず大まかに整理してみました。
(最終更新 2015年1月10日)
自在置物はその姓を近衛天皇より賜わったとの伝承を持ち、江戸時代には広く各地に分布していた甲冑師一派明珍によって多数製作されているが、作品の多くが海外に流出したこともあり昭和58年10月の東京国立博物館の特別展「日本の金工」で紹介されるまであまり知られることがなく江戸時代にどのような呼び名であったかも不明である(1)。しかし箱に「文鎮」と書かれており例外的にその名称が判明している福井の越前松平家伝来の明珍による龍自在置物は、比較的多くの記録が残っている。本稿ではそれらの記録を辿るとともに父が福井藩士であり越前松平家とも縁のあった岡倉天心が欧州視察で明珍の作品を目にしたことにより、甲冑師による工芸品という特異な存在である自在置物が明治期に美術品としてどのように再評価されたのかを考察してみる。
越前松平家伝来の龍自在置物
明珍吉久は越前に住した明珍一派の甲冑師で松平家の代々のお抱え工であった。福井市立郷土歴史博物館に無銘ではあるがその作とみられる大小2つの鉄製龍自在置物と一対の海老の自在置物があり、その他にもどの代の吉久の作かは不明であるが複数の鯉の自在置物の作品が残っている(2)。大小の龍の内、小さい方の箱には「文鎮」と書かれており『越前人物志』(福田源三郎 明治43年)において「雌雄龍の鉄製文鎮」として二代明珍吉久の作と伝えているものと同一であると思われる(3)。『平成25年秋季特別展 〈甲冑の美〉図録』(福井市立郷土歴史博物館 平成25年)中の「鉄製龍自在置物」の解説には「正徳四年(一七一四)、八代藩主松平吉邦のとき、祝儀のため江戸の藩邸に幕府老中たちを招いた際の座敷飾の記録に『文鎮 龍』とあり、自在置物がすでに用いられていたことがうかがえる」という記述がある。
『日本美術協会報告』(明治21年6号)には皇后宮陛下が行啓した明治21年5月の日本美術協会による展覧会を伝える記事があり「御休憩所ニ充タル一室」の「床脇ノ御棚ニハ松平茂昭出品明珍作鋼銕製伸縮龍」を飾ったとの記述が見られる。松平茂昭は越前福井藩の旧藩主であり、出品された「明珍作鋼銕製伸縮龍」は前述の明珍吉久作とされる龍のいずれかである可能性が高いと考えられる。
昭和4年の『旧越前福井城主松平侯爵家御蔵品入札目録』には「明珍作鐵龍置物」(図1)と「明珍作鐵龍小置物」(図2)が記載されている。写真から判断してこれらは福井市立郷土歴史博物館の2つの龍(図3)と同一のものと思われる。「明珍作鐵龍置物」の写真には「三個之内中は宮内省献上品」との記述が添えられ、もとは大中小の3つの龍があったことが推測できる。さらに「参照」として文書の写真(図4)も載せられている。これは宮内卿徳大寺実則から松平茂昭の先代の福井藩主であった松平春嶽に宛てた書状と考えられ、天覧に供された「銕製竜明珍一個」を明治天皇が手許に置きたいと思し召している、ということを伝えるものとみられる。その内容は以下の通りである。
銕製竜明珍一個
右被供
天覧候処
思召被為叶候間
御留置被遊候
条此旨小官より可
申演
御沙汰候仍右之段
意
得貴□候敬具
十二月廿三日
宮内卿実則
松平正二位殿
福井県文書館 「文書館叢書第8巻『越前松平家家譜(かふ)』慶永5 URL: http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/2010bulletin/shousho8_03.pdf」の明治15年12月19日の記事中に春嶽が参内した際(天覧に供した上で明治天皇がお望みならそのまま献上すべく)持参した「鉄製竜明珍作壱箱」を宮内卿に預けたという記述がみられるため、「十二月廿三日」と記されたこの書状は明治天皇がそれをそのまま手許に留めておきたいとのご意向であることを伝えたものだと考えられる。また「福井市立郷土歴史博物館名品図録」(福井市立郷土歴史博物館 昭和58年 PDF)には大きい方の龍が明珍吉久作「鉄製龍の置物」として記載されており、その解説にも二代明珍吉久作のものとして「松平家より明治天皇に献上された龍の置物」があるとの記述が見られる。先に触れた『旧越前福井城主松平侯爵家御蔵品入札目録』中の記述に基くならば、その献上された「龍の置物」は大中小の3つ存在したと思われる龍の内の「中」の龍であることが考えられる。
『美術商の百年 東京美術倶楽部百年史』(東京美術倶楽部 平成18年)によればこの昭和4年の旧越前福井城主松平侯爵家御蔵品入札において「明珍作鐵龍小置物」は二千八百三十円の値で落札され、一方「明珍作鐵龍置物」は「五万余円の札が入ったに関わらず親引き」となったという。同書によればこの入札の最高値は「碪青磁浮牡丹耳付花生」の三万八千八百円であり、それと比較しても相当の高額な入札であったことがわかる。この「親引き」となった明珍作の龍置物について同書では『書画骨董雑誌』(昭和4年4月号)の明珍吉久を紹介する記事を引用しており、次のような記述が見られる。
「越前松平侯爵家の蔵品入札の際に、二代明珍吉久作の鉄製屈伸自在の龍の小置物が在ったが、五万余円の札が入ったにもかかわらず、意に満たなかったのであろう、親引きとなって再度松平家の庫中へ戻ることになり、鑑賞家の目を睜らしめた」
「二代小左衛門吉久は越前松平家抱えの甲冑師で(中略)名工の聞こえ高く(中略)海野勝珉氏が、彼の手になった鉄の鷲の置物を見て『若し自分をして製作させたならば、数人の助手と三ヶ年の歳月に、およそ十万円以上の費を要するであろう』と言い、その入神の妙技には唖然として驚歎時を久しうしたという」
以上のような記録を見てみると、まず明珍吉久の龍自在置物は重要な賓客を迎えるにあたって飾りとして用いるのにふさわしい品と見なされていたらしいことがわかる。明治21年の日本美術協会の展覧会に皇后宮が行啓した際に御休憩所に飾られたのも、江戸時代以来のそのような用途に倣った可能性が考えられる。明治15年には一点が天覧に供された後、献上されたとみられることからも非常に貴重な品物であったことが推測できる。また、昭和4年入札にかけられた際にも相当な金額の入札があったことから(海野勝珉を引き合いに出しての話は多少誇張があると思われるものの)昭和に入ってからも二代明珍吉久のこの種の作品に関しての名工ぶりは伝えられていたことがわかり、入札の結果大きい方の龍が「親引き」という特筆される結果になったことや、落札された小さい方の龍も経緯は不明であるものの現在では共に福井市立郷土歴史博物館の収蔵品となっており散逸を免れていることも松平家にとって龍自在置物が特別な品物であったことを示すものだと考えられる。