ロンドンの山中商会により、英国の収集家から貸し出された作品による日本の美術品及び手工芸品の展示会が1915年に開催されている。この展示会は英国赤十字社と聖ヨハネ騎士団の援助を受けたもので、そのカタログ Catalogue of the loan exhibition of Japanese works of art and handicraft from English collections, held from October 14th to November 13th, London, Yamanaka & Co., 1915 の序文からも第一次大戦の影響が背景にあることがうかがえる。
カタログには高石重義の鉄製の鶉の香炉 (Koro, iron, a quail with gold eyes, signed Takaishi Shigeyoshi)の出品が確認できる(p.162)。高石重義の在銘作品で知られているものはボストン美術館の龍の自在置物のみであるため、貴重な記録といえる。
鈴木長吉の手による青銅製の龍の自在置物について伝える1899年の米紙 Los Angeles Herald の記事については、以前に「鈴木長吉の龍自在置物」としてブログ記事にした。その後の「鈴木長吉出品の鉄製龍自在置物」では、1893年の The Japan Weekly Mail の記事にこの龍とみられる作品に関する記述があることを紹介し、「鈴木長吉の鷲とEaglemania展」では2019年にボストン・カレッジの McMullen Museum of Art で開催された展覧会 Eaglemania: Collecting Japanese Art in Gilded Age America の図録において、1899年の Los Angeles Herald の記事に言及していることを記した。
その根拠については後述するが、1981年にSotheby’sのオークション THE LATE CHINGWAH LEE COLLECTION, San Francisco FINE ORIENTAL ART に出品された龍の自在置物は、それらの記事で伝えられた鈴木長吉の作品である可能性が高いとみられる。オークションカタログには Lot 51 FINE AND RARE articulated bronze dragon として2枚の写真が掲載されている。
明珍宗春の作とされる鷲
ボストン美術館蔵の龍自在置物(画像)は高石重義の在銘作品として知られる唯一のもの。これまで主に以下の記事で触れてきましたが、高石重義の龍自在置物は1900年パリ万国博覧会に出品されたとみられます。
・高石重義の龍自在置物 Articulated iron dragon by Takaishi Shigeyoshi
・ダブル・インパクト 明治ニッポンの美 Double Impact: The Art of Meiji Japan
これらの記事では「日本国内の展覧会で受賞歴がある『Takaishi Shigeyoshi作の鉄製の可動する龍』」を1900年のパリ万国博覧会で購入したというオランダ国立民族学博物館の記録があること、その龍は第十四回彫刻競技会での受賞作である可能性が高いことについて述べました。高石重義の龍がパリ万国博覧会に出品されていたとすると、どのような経緯で出品に至ったのでしょうか?
『明治期万国博覧会出品目録』(1997年 東京国立文化財研究所)所載のパリ万国博覧会出品目録ではこの作品と思われるものの記載は見出せませんでしたが、大熊敏之「明治”美術史”の一断面 ー 一九〇〇年パリ万国博覧会と宮内省」『三の丸尚蔵館年報・紀要 創刊号』(1996年 宮内庁)によれば明治32年秋、臨時博覧会事務局は急遽「第十四回東京彫工会彫刻競技会から十七点を出品作として選出した」とのこと。高石重義の龍自在置物は同競技会で銅賞を受賞しており、そのうちの一点であった可能性があるのではないかと考えていましたが、今回確認した『美術評論』第二十二号(明治32年11月)「時文 巴里万國博覽會に對する美術作品」にはその内訳が記載されており、その内容は以下の通りでした(表記は原文のまま)。
木彫 老翁 平櫛偵太郎
同 小原女 森鳳聲
同 婦人 渡邊長男
同 少女 三橋淸
同 老婆 中村直彥
同原型 婦人 山田政治
鑄金 小供 蟹谷國晴
銀製 虎 沼田一雅
牙彫 元祿若者 島村芳明
同 小供 森野光林
木彫 媼慈孫 山田鬼齋
同 木賊刈 林美雲
銅製 乳牛 卷野外次郎
同 驢猿 山中助美
牙彫 農夫 吉田宗壽
同 老人汲水 濱田正明
同 狼 岡田知一
選ばれた「17点」の作者の中に高石重義の名は確認できません。ところが、『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告上』(明治35年 農商務省)の記述では「東京彫工會及ヒ第十四回彫刻競技會ニ臨ミ、列品中二十八點(内木彫十點、金彫九點、牙彫九點)ニ就キ鑑査ヲ行ヒ、十八點(内木彫八點、金彫五點、牙彫五點)ヲ採定シ」となっており、『美術評論』が記している17点より1点多い「18点」が選ばれたことになっています。
『美術評論』に記載のある17点の内訳に注目すると、木彫、同原型が8点、牙彫が5点、鋳金、銀製、銅製を金彫とするならば計4点となります。『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告上』では金彫が5点となっており、(『美術評論』に記載の17点の作品については間違いがないとした上で)金彫の作品がもう一点選ばれていたとするならば、それが高石重義の作品であった可能性が考えられるでしょう。
(2018/2/7 追記)
1900年パリ万国博覧会の公式カタログ “Catalogue général officiel, Exposition internationale universelle de 1900” がインターネット公開されているのを知り、青銅、鋳鉄、打ち出しの金工作品を対象とした出品区分である第十五部第九十七類(1)を調べてみました。
結果として高石重義の名は見出せなかったものの、1893年シカゴ万国博覧会に鷲の自在置物を出品した板尾新次郎(清春)、一枚の鉄の板から複雑な形状の作品を成形する山田長三郎(宗美)という打ち出しによる動物の作品で知られる二人の他にも、”Fukuda Tokubéi” という東京の人物が「鉄打ち出しの動物」の作品を出品していることがわかりました。
板尾、山田、Fukuda の三者の出品についての原文の記載は以下の通り。
Itao (Kiyoharu), à Osaka. - Fer incrusté d’or : Paon.
Yamada (Tchôzaburô), à Ishikawa-kén.- Fer repoussé : Oiseux. Animaux. Vases. Brûle-parfums, etc.
Fukuda (Tokubéi), à Tôkiô. - Fer repoussé : Animaux.
板尾新次郎、山田宗美とは異なり、鉄打ち出しの作家として名が知られていない Fukuda Tokubéi は自身では作品制作をしない出品人であったとみるべきであり、高石重義の作品の出品人であった可能性が考えられるでしょう(2)。この Fukuda Tokubéi と同一の可能性がある人物としては、第二回、第三回の内国勧業博覧会に金工作品を出品し、出品記録の「神田元柳原町」「京橋区木挽町二丁目」との記載から東京の人物である点も一致する「福田徳兵衛」が確認できるほか(3)、原田道寛編『大正名家録』(二六社編纂局 大正4年)には、刀剣商であった「神田区柳原町福田徳兵衛」の長男として明治7年に生まれたという、法学博士福田徳三の履歴がみられます(4)。高石重義が明治32年の東京彫工会第十四回彫刻競技会に龍自在置物を出品した際の記録には「東京府」と記されており、第十二回彫刻競技会には刀身彫刻の作品とみられる「刀剣切物」を出品(5)しています。刀剣商福田徳兵衛が高石重義の作品の出品人であったと推測するならば、ともに東京の人物であり刀剣との関わりを持つという共通点は、その推測を補強する材料となるでしょう。
日本美術に非常に造詣の深かったブリンクリーは、その著書における板尾新次郎、高石重義についての記述で自在置物についてもふれており(6)、高石重義については「元は刀装金工であり刀身彫刻にも秀でていたが、現在は鉄の龍や海老、蟹などの製作者として称えられている」との旨を記しています。パリ万国博覧会の公式カタログにおける Fukuda Tokubéi の出品は “Animaux” と複数形の表記になっており、動物の種類は特定されていません。この出品作が高石によるものだとすれば、龍以外の作品もあわせて出品されたためにこの表記になったとも考えられるでしょう。ブリンクリーによる板尾新次郎、高石重義についての記述には、彼らの作品の多くは「明珍」の作品として販売されたともあります。対外的には自在置物の当代の作者について詳らかにすることを極力避けるために、 すでにシカゴ万国博覧会へ出品し実績のある板尾新次郎とは異なり、これまで自在置物の作家として無名であった高石重義はその名を伏せての出品となったのかもしれません。
(註)
(1)公式カタログ、第十五部第九十七類の日本の出品。
URL http://cnum.cnam.fr/CGI/fpage.cgi?12XAE54.17/316/100/831/16/830
(2)なお、東京国立文化財研究所美術部編『明治期万国博覧会美術品出品目録』(中央
公論美術出版 1997年)所載の『千九百年巴里万国博覧会出品聯合協会報告』(同出
品聯合協会残務取扱所刊、明治三十六年、東京国立文化財研究所蔵)に基づく出品目
録、星野錫編『美術画報 臨時増刊 巴里博覧会出品組合製作品』(画報社 1900年1
月)、『官報』第五六三八号「巴里萬国大博覧会本邦出品者受賞人名」明治三十五年
四月二十四日 には Fukuda Tokubéi に該当する名前は見当たらない。
(3)東京国立文化財研究所美術部編『内国勧業博覧会美術品出品目録』(中央公論美術
出版 1996年)による。第二回内国勧業博覧会では出品人として数名の製作者の作品
を出品している。
(4)国立国会図書館デジタルコレクションの該当ページ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954637/499
(5)東京文化財研究所編『近代日本アート・カタログ・コレクション 第2期 086
東京彫工会 第2巻』(ゆまに書房 2008年)による。
(6) F. Brinkley, Japan, Its History, Arts and Literature, Volume 7, Author’s Edition, Boston ; Tokyo, J.B. Millet, 1902. このエディションには彫金工の名鑑も収録されており、それ
に記載されている(高石は Takaiishi との表記)。インターネット公開あり
https://archive.org/stream/japanhistoryarts07briniala#page/26/mode/2up 。
パリ万国博覧会から程なくの刊行であることを考えると板尾新次郎、高石重義の両名
が自在置物の製作者として掲載されているのは興味深い。
ブリンクリーと日本美術の関わりについては エレン・P・コナント「フランク・ブリ
ンクリー大尉」,『ナセル・D・ハリリ・コレクションー海を渡った日本の美術』(第
1巻・論文編 同朋舎出版 1995年)が詳しい。
明治期を中心として自在置物および自在置物と思われる作品の博覧会、展覧会などへの出品記録をまとめてみました(暫定版につき適宜加筆修正していく予定)。
pdf版も作成しました。こちらも随時更新する予定です。
第三回観古美術会への工商会社による出品「鐵製螳螂置物」「銅製蟹置物」追加(2019/11/05)。
(Last updated: 06 Feb. 2021)
福田源三郎『越前人物志』(明治43年)の明珍吉久の項に一部抜粋のあった佐野常民による演説の要領を入手しました。岡部宗久編『内外名士日本美術論』(鼎栄館 明治22年)に収録されています。
この演説は明治21年に龍池会が日本美術協会と改称してから初めて開催された展覧会の褒賞授与式におけるものです。岡倉天心らの海外視察の報告により甲冑師一派明珍の作品の国外での高評価が注目されたとみられるこの展覧会には自在置物を含む複数の明珍の作品が出品されており、佐野常民はその明珍を例にあげて日本美術について語っています。
展覧会に出品された越前松平家伝来の明珍吉久作「魚鱗ノ甲冑」については「其製作ノ妙ナル眞ニ優等ノ美術品ナルハ誰カ之ヲ否ト言ワンヤ而シテ其材料ハ黯黒色ノ鋼鐵ノミ以テ美術品タルノ價位ハ材料ニ關セザルヲ知ルヘキナリ」と述べ、美術品としての価値はその素材の価値によらないという意見を表明し、さらに「美術ハ國光ヲ發揚スルモノナリ國富ヲ増殖スルモノナリ」とした上で、岡倉天心が海外視察において目にしたと思われるサウス・ケンシングトン博物館の明珍作の鷲について「其初ハ尋常一様ノ鋼鐵ナルニ名工ノ手ヲ經テ優逸ノ美術品トナレバ此ノ如キ高價ヲ發ス美術ノ國富ヲ増殖スル實ニ鴻大ナリト謂フヘシ此ノ如キ名品ノ海外ニ出シハ遺憾ナリトハ雖モ之ニ由テ日本美術家明珍ノ名宇内ニ顕レ従テ日本ノ光輝ヲ發揚セシハ一大快事ナラズヤ」と述べており、高価な材料を用いることなく高額な美術品としての評価を得たことに注目していることが窺えます。明珍を「日本美術家」と表現しているところも興味深い点です。
この「サウス・ケンシングトン博物館の鷲」について、この演説では越前松平家の家臣が賜ったものが僅かな金額で売却され、その後に同博物館に高額で購入されたもので「魚鱗ノ甲冑」と同じ作者によるものとしています。しかし、実際にはこの鷲は明珍作と伝えられてきたもののそれを示す銘などはなく、「魚鱗ノ甲冑」の作者である明珍吉久によるものではないとみられます。
佐野常民が両者をともに明珍吉久の作としたことについては以下のような理由が考えられます。"The mechanical engineer. Vols. vii and viii" (1884)には英国人フランシス・ブリンクリー(河鍋暁斎とも交際のあったことが知られる)が3500ドルと評価された「ミョウチン ムネアキ」作の龍の自在置物を所有している、との記述があり、その龍は越前松平家の旧家臣の家から出たものとしています。越前松平家の明珍の作品に関する異なる話を意図的に混同することにより、佐野常民は古美術の海外流出を戒めるとともに、そうして海外に渡った作品は日本の国威を発揚するものにもなり得る、という両面を効果的に語ろうとした可能性が考えられるでしょう。
またこの明治21年の日本美術協会展覧会には明珍吉久作とみられる龍自在置物も出品されています。この展覧会に先立つ明治15年に、同じく明珍吉久作とみられる龍自在置物一点が松平春嶽により明治天皇に献上されており、日本美術協会が皇室との繋がりを強めていったことを考えるならば、海外で高い評価を受けたサウス・ケンシングトンの鷲と明珍吉久を結びつける狙いがあったことも窺えます。
東京藝術大学大学美術館で開催中の「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」を見てきました。
個人的にはなんといってもチラシにも出ている高石重義の龍に注目です。首を延ばせば2メートルを超えると思われるその大きさは自在置物としては最大級。より小さな作品の方が細密さを感じさせるという点では勝るのかもしれませんが、この龍は丁寧で精巧な作りで大味な感じはありませんでした。耳や顎などの可動部分もパーツの分割部分が薄く作られ非常に滑らかな仕上がりです。
X線写真も展示されていましたが、首から胴体にかけてコイルばねが仕込んであるように見えます。思ったほど写真が大きくなかったこともあり(図録に掲載の写真も)このあたりの構造に関する部分は別の書籍などに詳しく掲載されることを望みます。
米国の電子化した新聞記事を公開しているウェブサイトで、鈴木長吉の手による青銅の龍自在置物についての記事(1899年5月)を見つけました。