昭和12年5月、「白鶴翁」嘉納治兵衛が催した茶会「白鶴山荘春季美術館釜」の飾付けに、鷹の自在置物が用いられていたことを、当時の『茶道月報』の記事が伝えている。
『茶道月報』(319),茶道月報社,[1937-07]
https://dl.ndl.go.jp/pid/11208215/1/52
「白鶴山荘春季美術館釜」は「白鶴翁自ら銘器をひつ提て美術館前の山荘に於て二日間在釜される例になつて居る」といい、「それで此春は去る五月十五、六の両日にも盛大に催された」とある。
鷹の自在置物が用いられた本席の飾付けは以下のような内容であった。
床 水車躍鯉楓図 一鳳筆
花生 乾隆官窯黄地壺
花 天女花 百合
書院 堆朱鐘鬼〔ママ〕彫香合
棚上 正倉院御物寫
弾弓 竹絃 矢二本
奈良 森川杜園作
木彫武内宿禰像
同 杜園作
棚下 鉄製鷹 唐木枠の上にとまって居る置物 明珍作
「鉄製鷹」について、「鷹の置物は名工明珍の作であって例の如く羽、尾、首など自由自在に動くようになって居る」と記されていることから、自在置物であったことが知れる。鯉、鍾馗、弓矢などを表した作とともに飾られていることからわかるように、この飾付けは五月人形の趣向であった。飾付けに合わせて用いられた、それぞれ銘が金剛杖、弁慶の茶杓と蓋置、法螺貝を写した道八作の鉢や山道盆なども、五月人形のモチーフにもされる「勧進帳」の牛若、弁慶を表している。
第二次大戦後は長く忘れられ、近年では明治期の輸出向け工芸品として注目されることが多い自在置物だが、昭和初期において、著名な実業家でもある嘉納治兵衛の催した茶会で用いられた記録があることは興味深い。当時、少なくとも茶人のように古美術品に親しむ層には「明珍」による可動の作品が広く知られていたことが、「例の如く羽、尾、首など自由自在に動く」と書かれていることから窺える。白鶴美術館と同じく神戸の香雪美術館は、茶人でもあった村山龍平の収集品を収蔵する美術館であるが、大阪で活動した板尾新次郎の作とみられる鷹の自在置物を所蔵している。板尾新次郎は山中商会とも関わりがあったとみられるが、山中吉郎兵衛、村山龍平、嘉納治兵衛はいずれも関西の実業家を中心とする茶の湯の会「十八会」の会員であった。「白鶴山荘春季美術館釜」で用いられた「鉄製鷹」は「明珍作」となっているが、板尾新次郎の作であった可能性もあるように思われる。
以前スウェーデンの東アジア博物館所蔵の自在置物について紹介したが、同じく北欧のノルウェー国立美術館オンラインコレクションでも自在置物がいくつか公開されている。同館は2022年に北欧最大級の美術館としてオスロにリニューアルオープンしたという(https://www.norway.no/ja/japan/norway-japan/news-events/news/33/)。
確認できる自在置物は以下のとおりである。
伊勢海老(2点)https://www.nasjonalmuseet.no/samlingen/objekt/OK-11686 https://www.nasjonalmuseet.no/samlingen/objekt/OK-11689
このうち、蛇・蛙・手長海老について、以下に紹介する。
蛇は下顎に「宗明」の銘があり、高瀬好山工房の工人であった宗明の作であると思われる。
明治天皇が自在置物に興味を惹かれていたことを記した、沢田撫松編『明治大帝』(帝国軍人教育会 大正元年)中の「妙珍作の龍と蟹」という逸話について「自在置物を好んだ明治天皇」で述べたが、この逸話は、明治6年のウィーン万国博覧会、同9年のフィラデルフィア万国博覧会に派遣されるなど早くから日本の美術、工芸と関わってきた塩田真の談話に基づくものとみられることがわかった。
この談話は、『研精画誌』第65号(美術研精会事務所 大正元年)に「先帝と美術」と題してして掲載されている。「妙珍作の龍と蟹」とほぼ同じ内容のエピソードもあるが、それにはない情報もいくつか含まれている。
まず、蟹の自在置物を明治天皇に献上した人物が「骨董商の若井」となっている。これはおそらく起立工商会社の副社長も務めた若井兼三郎であろう。この蟹は若井が二百円で買ったもので、外国人に売れば六百円にはなるものであったという。若井は献上の際に購入代金分の二百円の目録を賜ったと記されているが、これは明治15(1882)年5月24日、浅草本願寺で開催された観古美術会への明治天皇の行幸に際し、龍池会から「明珍作鐵製蟹置物」が献上された折に「龍池会に金二百円を賜ひて明珍作鐵製蟹置物の献上に酬い」たという記録(1)があることと一致する。
明治天皇が松平確堂の「七寸位の鐵の打出しで伸縮龍と云はれる」ものを気に入り、献上されることになったという話の中では、「是れから頻りと上方邊でこの似せ物が出来て外國人など大分やられた様子だつた」と語られている。これはシカゴ万国博覧会などに自在置物を出品した板尾新次郎が大阪で活動し、その作品の多くが明珍の作として売られたと伝わっている(2)ことと符合しており、興味深い。京都の高瀬好山の作品も、鉄製のものはおそらく明珍の作として売られたことも多かったであろう。この話はこれらの事情を反映したものとも思われる。
また、山田宗美にも触れている。明治35年の日本美術協会展覧会への行幸の際、明治天皇は特に山田宗美の鶏の雌雄に目を止め、実際に手にとってその軽さを確かめたという。自在置物と同様に鍛鉄の技術を用いた作品として山田宗美の作品に関心を寄せていたことが窺える。
「先帝と美術」の内容は「自在置物を好んだ明治天皇」で指摘した疑問点もそのままではあるが、このように往時の自在置物をめぐる状況の一端を覗かせるものといえるだろう。
註
岡山出身で後には京都で活動した明治の金工家、正阿弥勝義の銘があるムカデの自在置物が現存している可能性があることがわかった。
1898年に英国で出版された日本美術コレクションのカタログにムカデの自在置物が記載されている。ムカデは鉄製で大きさは17 1⁄2インチと記されており、銘は正阿弥勝義となっている(Michael Tomkinson, A Japanese Collection Volume 2, London, Allen, 1898, p. 62.)。
平凡社『太陽』1984年1月号に、冨木宗行氏の父で高瀬好山工房の工人であった「宗好」を紹介する記事が掲載されている。「京の手わざ」と題されたその記事は、文・松本章男、写真・石元泰博によるもので、この号から新連載となっている。1983年10月の東京国立博物館の特別展「日本の金工」で初めて自在置物が紹介されてから間もない頃で、まだ自在置物や高瀬好山については現在ほど知られていなかったと考えられる。しかし、京都に生まれた松本章男は、高校時代の正月に見た、友人の家に飾られていた富木宗好氏の伊勢海老のことを鮮明に憶えていたのだという。
冨木宗好氏は、幼少時に父が早世したため高瀬好山のもとで育った。記事では、好山の作品を朴炭で研ぎ続ける毎日だったという少年時代のエピソードなども紹介されている。2016年「驚きの明治工藝」展図録には冨木宗行氏へのインタビューが掲載されているが、それと並んで冨木家の工人の姿を伝える貴重なものといえるだろう。
石元泰博による写真には、金象嵌の赤銅製の蝶、銀製伊勢海老の自在置物、宗好氏の手を大きく写したものもある。高知県立美術館には石元作品のアーカイブ活動を行う石元泰博フォトセンターが存在するので、こうした写真も何らかの形で展示される日が来るかもしれない。
「京の手わざ」の連載は1988年に學藝書林『京の手わざ―匠たちの絵模様』として単行本になっており、この記事も連載時と同じくカラー写真とともに収録されている。
川崎正蔵は川崎造船所の創業者で、日本初の私立美術館「川崎美術館」を創設した実業家である。その収集品図録『長春閣鑑賞 第六集』(國華社 大正3年)に一対の鉄製人物置物が掲載されており、「恐く明珍家の名匠の手になりしものなるべし」としている。
この作品で想起されるのは、原田一敏「自在置物について」『MUSEUM 東京国立博物館美術誌』第507号 で「人間の自在置物」として紹介されている、フランス・Robert Burawoy 氏蔵の「臥す人」「座す人」という一対の作品である。
その紹介によれば、「臥す人」「座す人」は鉄製で、臥す人」は頭のみ、「座す人」は頭と足が可動であるという。『長春閣鑑賞 第六集』掲載の鉄製人物置物の作品写真をあらためて見ると、立たせてある右側の人物の姿勢は、座っている方が自然なように思われる。左側の横たわる人物では確認できないが、右側の人物は頭と足が胴体とは別部品とみられ、可動するように見受けられる。大きさについて比較すると「鉄製人物置物」は身長四寸と記されており、ともに約12cmという「座す人」「臥す人」とほぼ同じである。
甲冑師の鍛鉄の技術が用いられたと推定されるような作品で、人物を象ったものは数多く見られるものではない。一対になっている作品となれば、より珍しいものであろうが、1883年に起立工商会社がルイ・ゴンス主催の展覧会に出品した作品も「一対の鉄製人物置物」であった。さらに、その翌年には同社社長であった松尾儀助が第五回観古美術会に「明珍作鐵人物置物 二個」を出品している。(前記事「ルイ・ゴンス主催の日本美術展で展示された起立工商会社出品の自在置物」参照)。
起立工商会社および松尾儀助による前記の出品作が、川崎正蔵が所蔵していた「鉄製人物置物」と同一作であるかは断定できないが、山本実彦『川崎正蔵』(大正7年)には「森村男と川崎翁とは明治六七年頃より親交を繼續し、義兄弟として桃園に義を誓ひし者なるが、此に松尾儀助氏を加へて、三兄弟と稱し、水魚も啻ならざる親交を結びたりき」とある。「鉄製人物置物」をめぐっては、Burawoy 氏蔵の「臥す人」「座す人」という作品が現存していることに加えて、川崎正蔵と松尾儀助のこうした関係もまた注目されるところである。
1883年に出版されたルイ・ゴンスによる『日本美術回顧展目録』 Catalogue de l'exposition rétrospective de l'art japonais は、日本美術の収集家らのコレクションを展示した展覧会の目録である。ゴンス主催のこの展覧会には、自在置物と思われる作品が出品されていたことが確認できる。
その作品は、Charles Haviland により出品されたミョウチン・ムネフサ銘の「関節のある蟹の形をした鉄製の香箱」(1)、および "Kosho-Kaisha"出品のミョウチン・ノブイエによる「鍛鉄製の関節のある2つの小像」(2)である。後者は起立工商会社による出品であろう。両作品とみられるものは、同じくルイ・ゴンスの著した L'art japonais. Tome 2 でも触れられており、後者については「工商会社はミョウチン・ノブイエ(16世紀)作の、足、頭、腕が動く非常に生き生きとした独創的な鉄製の人形2体をパリに送った」と記されている(3)。このことから、起立工商会社による出品は、人物像を自在置物として作ったものであったと考えられる。
この起立工商会社により出品された自在置物に関しては、同社社長であった松尾儀助が明治17年(1884)の第五回観古美術会に「明珍作鐵人物置物 二個」を出品(4)していることが注目される。こちらも2点同時に出品されており、前年の「日本美術回顧展」に出品されたものと同一作である可能性が考えられる。また、フランスの個人蔵の作品として「臥せる人」「座す人」の一対の自在置物の現存が確認されている(5)。この作品が同一のものであるかはわからないが、起立工商会社により出品された2点も、同様に対をなすように作られた作品であったのかもしれない。
起立工商会社の「日本美術回顧展」への出品の総数は4点で、人物像の自在置物以外の3点は掛物と屏風であった(6)。少ない出品の中に自在置物が含まれていたことには何か理由があったのだろうか。「日本美術回顧展」の前年にあたる明治15年(1882)、起立工商会社は第三回観古美術会に「鐵製螳螂置物」「銅製蟹置物」を出品しており(7)、これらも自在置物であった可能性がある。また、同会への明治天皇の行幸に際し龍池会から「明珍作鐵製蟹置物」が献上されたと伝えられており(8)、こうしたことと関連があるのかもしれない。明治17年(1884)の第五回観古美術会に出品された「明珍作鐵人物置物 二個」が、前年の「日本美術回顧展」の出品作と同一であったとすると、フランスでの展示を経たことは、国内での評価を高める効果があったとも考えられる。
自在置物は甲冑師の技術に基づくものであるが、同じく武具と関わる美術品といえる鐔などの刀装具と比べれば、その数は非常に少なく、日本国内でも目にする機会は限られていたと思われる。また、武具そのものである甲冑や刀剣のように由緒ある作が多く存在していたり、鑑定基準が定まっていたわけでもない。自在置物の精巧さは国内外を問わず人を驚嘆させるものであったには違いないが、その国内における美術品としての価値は、海外からの評価に依拠して高められていた部分が大きかった可能性は考えられるだろう。
註
井戸文人編『日本嚢物史』(日本嚢物史編纂会 大正8年)に湯川廣斎という東京の人物が牙角彫刻家として紹介されている(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1869703/452)。大石芳斎の弟子で「尾崎谷斎の風を慕いて大成した」という。同書には大石芳斎についても記されている(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1869703/451)が、牙材で竹を模したものや、懐中時計の器械を彫り出したものを製作した話なども紹介されており「名人中の名人」と評されていたとある。
廣斎は後には「全彫り」の置物なども作り、猿を得意としていたほか、牙彫の龍、鯉においては「屈折自在、能く其物の特徴を發揮」したとあり、これらはおそらく自在置物であったものと思われる。海外の嗜好に合わせた製作であったため、国内にはその作品がほとんど見られないという。
明治23年の第三回内国勧業博覧会に牙彫の自在置物とみられる作品が出品されたことは、以前のブログ記事「非金属製の自在置物はいかにして現れたのか」で触れたが、廣斎の廃業は明治二十年頃とあり、牙彫の自在置物を作っていたとすれば、それより前であったと考えられる。
NHK 東博150年 知られざるモノがたり ~日本の至宝 大公開SP~
番組紹介より
創立150年を迎えた東京国立博物館の、知られざる収蔵品に秘められた「モノがたり」。8Kで東博の収蔵品を撮影、「教科書に載らない歴史の意外な1ページ」を紹介。
BS8Kなので視聴できる環境は限られますが、鉄鍛金の本郷真也さんと一緒にちょっと出ていて、自在置物についての話をしています。3月28日が初放送だったのですが、今のところ4月6、8、10日にも放送予定があるようです(時間は不規則ですが)。
時期は未定ですが、通常のBSでの放送予定もあるそうです。
2022/10/4 追記:10月8日(土)の午後9時からBS4KおよびBSプレミアムで放送、翌日からはオンデマンドの配信も予定されているようです。
2023/3/19 追記
この記事についての補遺を公開。「妙珍作の龍と蟹」は塩田真の談話に基づくとみられる。
明治天皇の崩御から間もなく出版された沢田撫松編『明治大帝』(帝国軍人教育会 大正元年)は、その事蹟を記し伝える内容であるが、明治天皇が自在置物に強い関心を持っていたことを示す逸話も紹介されている。
明治十五年に松平春嶽が同家伝来の龍の自在置物を天覧に供するために参内したこと(1)や、明治二十一年の日本美術協会美術展覧会に皇后が行啓した折には同家の龍自在置物、明治二十四年の日本美術協会春期展に明治天皇が行幸した際には、和歌山出身の金工家、板尾新次郎作の「屈伸自在鉄製鷹置物」が「御休憩所」に飾られたこと(2)、また、明治十五年に浅草本願寺で開催された観古美術会への明治天皇の行幸に際し、龍池会から「明珍作鐵製蟹置物」が献上されたこと(3)などは、明治天皇が自在置物に特別な関心を寄せていたことを示唆する例と考えうるものであったが、『明治大帝』で紹介されている「先帝陛下の御逸事」のうちの「妙珍作の龍と蟹」と題した文は、それを裏付けるものとみられる。
以下にその全文を示す。江戸時代に自在置物を製作した甲冑師一門の名として「明珍」とされるべき表記が「妙珍」となっているが、原文のままとしている。
妙珍作の龍と蟹
明治十六年今の美術協會の上野に移る前、日比谷大神宮の社務所に開館されし事ありき。先帝には每年必ず行幸遊ばされしが、此の時作州津山の城主松平確堂候の出品に妙珍作の龍あり、此の龍は長さ七寸位の鐵の打出しにて伸縮龍と云はれ、龍の鱗は一枚々々爪の先まで動き頗ぶる面白きものなりしが、先帝には甚く御意に叶ひしか、御休憩所に入らせられて後も德大寺侍從長にあの龍を今一度持ち來れと仰せられ、熱心に御覽ぜよれしより、佐野會長は確堂侯に申上げて献上の手續きをなせしに陛下は大に悅ばせ給ひ、直ちに其の儘御持歸り遊ばされしが、その後明治十八年築地本顧寺に開會されし折、骨董商某が妙珍作の精巧なる蟹を何處よりか手に入れ大得意にて出品せる折柄、宮內省より電話にて行幸の御通知あり、水盤に花の咲きたる枇杷の大木を活けこの幹の曲りし處に件の蟹を這はせけるが偖愈行幸あり御晝食の折、先帝ふと妙珍作の蟹にお目を止め給ひ御自身お立ち遊ばされてお手に取上げ給ふに、蟹は自由に八本の足を動かす面白さに、殊の外御意に入らせられ御卓子に持歸らせて頻りと、御覽あり「よく出來たもの哉」と幾度も/\仰せ給ふより、會頭は恐懼のあまり、時の宮相土方伯を經て某より進献致さすべき旨申上げしに、陛下には紙にも御包みなくその儘洋服の御隠しにお入れ遊ばされたり、地下の妙珍も感泣の涙に噎ぶならめと今も其の道の人々の語り草となれり。
アートフェア東京2022
3/11~3/13
古美術鐘ヶ江 <KOGEI Next> ホールE S040ブースにて作品を展示します。
《自在黄泉蛙》
サイズ L36 × W35 × H20 (mm)
素材 銀 18金 赤銅 真鍮 青銅 ネオジム磁石
アマガエルをモチーフとした自在置物。本体に家電などからリサイクルした銀を使用。腹部に内蔵したネオジム磁石により鉄製のものに吸着可能。
明治25年(1892)開催の京都市美術工芸品展覧会に「銕製蟹置物」が出品されていたことが『京都市美術工芸品展覧会審査報告』(博覧協会 明治25年)で確認できる。出品人は「富木治三郎」となっているが、鉄製の蟹の置物であることから、これは高瀬好山工房の工人冨木一門で宗信と称した冨木次三郎であろう。出品作も自在置物であったと考えられる。
この展覧会に金工の作品は79点出品されている。そのうち授賞は「一等賞二等賞各一名三等賞四等賞各五名五等賞四名通シテ十六名」となっており、「銕製蟹置物」は四等賞を受賞している。高瀬好山が工房を構えるのは明治26年であるが、その前年に好山工房の工人としてではなく冨木の名で展覧会に作品が出品され、受賞していたことは興味深い。
冨木次三郎の父、二代冨木伊助は蟹の自在置物を「ドシドシ売出して」いたと明治34年1月15日付けの『北国新聞』は伝えているが、これは伊助の没年である明治27年以前の話ということになろう(註)。『京都美術雑誌』(2号 明治25年)の記事によれば、明治24年の京都美術協会 九月陳列会には富岡鉄斎蔵「鉄製小蟹明珍作」が出品されており、京都市美術工芸品展覧会への「銕製蟹置物」の出品と併せて、京都での冨木家の工人の活動との関連が注目されるところである。
註 原田一敏「別冊緑青 vol. 11 自在置物」(マリア書房 2010年)
『京都美術雑誌』(2号 明治25年)
前回のブログ記事は、第三回観古美術会が開催されたときに明治天皇に蟹の自在置物とみられる品が献上されたことについてであったが、『観古美術会聚英 解説』(博物局 明治13年)に第一回の観古美術会に自在置物が出品されていたことが確認できる。亀井茲監出品の「鐵造蝦蟆文鎭 明珍吉久作」がそれであるが、「大サ一寸二分許」「評ニ曰ク肖形真ニ逼ル四足機ヲ以テ屈伸ヲナス甚奇巧鐵色古雅ナリ銅ヲ以テセスシテ鐵ヲ以テ造ル一段ノ味アリ」と記されていることから、四肢が可動のカエルの自在置物であることがわかる。
明珍吉久のカエルの自在置物の作例としては、2018年にクリスティーズのオークションに出品された後、その翌年2019年にはボナムズのオークションに出品されたものがある。箱書には「文鎮」と書かれており、全長は4.1cmで、「大サ一寸二分許」と記されている亀井茲監出品のものは同様の作であったかもしれない(1)。
出品者の亀井茲監(かめいこれみ)は津和野藩の最後の藩主だが、第四回観古美術会に自在置物とみられる「明珍作鐵屈伸龍文鎮」を出品した(2)松平確堂も津山藩の藩主であった。こうした旧藩主らが所蔵する自在置物は、観古美術会を主催する龍池会の日本美術協会への改称後も、その展覧会に出品されることになり、自在置物が多くの人の目に触れる機会をもたらしたと考えられる。亀井茲監による出品は、そうした流れの最も早い時期の例として注目される。
註
『観古美術会聚英 解説』(博物局 明治13年)
宮内庁編『明治天皇紀 第五』(吉川弘文館 1971年)の記述によれば、明治15(1882)年5月24日、浅草本願寺で開催された観古美術会への明治天皇の行幸に際し、龍池会から「明珍作鐵製蟹置物」が献上されたという。以下に該当部分を示す。
浅草本願寺内に開催せる龍池会観古美術会に行幸あらせられ、古美術工芸品を覧たまふ、蓋し同会の請を聴し、美術奨励の聖旨に出でたまふなり、午前十時三十分御出門、侍従長米田虎雄陪乗し、宮内少輔山岡鐵太郎等宮内諸官供奉す、御休息所に著御、龍池会会頭佐野常民等に謁を賜ひ、同寺奥座敷に於て御昼餐を召したまひ、午後常民の嚮導に依り陳列品を巡覧あらせらる、又堀田瑞松・石川光明等の席上彫刻を覧たまひ、小休あらせらる、東本願寺住職大谷光勝交肴一折を献上す、直に之れを供進せしめたまひ、また光勝を御前に召して天杯を賜ふ、是の日龍池会に金二百円を賜ひて明珍作鐵製蟹置物の献上に酬い、又別に金百円を同会に、白縮緬二匹を光勝に下賜したまふ
献上された「明珍作鐵製蟹置物」はおそらく自在置物であったと考えられる。このとき(第三回)の観古美術会には以下のような出品もあり、これらも自在置物であった可能性は高いと考えられるだろう。
・工商会社 出品
鐵製螳螂置物
銅製蟹置物
『第三回観古美術会出品目録 第三号』(有隣堂 明治15年)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849464/32
また、この年の12月19日、松平春嶽が自在置物とみられる「銕製竜明珍一個」を天覧に供するため参内したところ、明治天皇により「御留置」とされた記録が残っており、自在置物が明治天皇の好みに合うものであったことが窺える。平成30年秋季特別展図録『皇室と越前松平家の名宝 -明治美術のきらめき-』(福井市立郷土歴史博物館 2018年)には宮内卿徳大寺実則が松平春嶽に宛てた書簡が掲載されており、このときの状況を知ることができる。
この出来事と龍池会による「明珍作鐵製蟹置物」の献上との直接の関連性はわからないが、龍池会は「明珍作鐵製蟹置物」が明治天皇の好みに沿うものである、あるいはそれを期待できると考えて献上品として選んだのは確かであろう。龍池会および改称後の日本美術協会において自在置物がどのようなものとして位置づけられていたかを考えるにあたり、このような明治天皇と自在置物との関係が及ぼした影響にも注目する必要があるだろう。
ロンドンの山中商会により、英国の収集家から貸し出された作品による日本の美術品及び手工芸品の展示会が1915年に開催されている。この展示会は英国赤十字社と聖ヨハネ騎士団の援助を受けたもので、そのカタログ Catalogue of the loan exhibition of Japanese works of art and handicraft from English collections, held from October 14th to November 13th, London, Yamanaka & Co., 1915 の序文からも第一次大戦の影響が背景にあることがうかがえる。
カタログには高石重義の鉄製の鶉の香炉 (Koro, iron, a quail with gold eyes, signed Takaishi Shigeyoshi)の出品が確認できる(p.162)。高石重義の在銘作品で知られているものはボストン美術館の龍の自在置物のみであるため、貴重な記録といえる。
山崎南海の名は牙彫伊勢海老自在置物で知られている。京都国立近代美術館に着色したものと無着色のもの各一点が所蔵されているほか、オークションに出品もされることもあり、ある程度の数が作られているものと思われる。
南海についての詳細は伝わっていないようであるが、海野勝珉の門人に同名の人物がいる。若山猛 編著『刀装金工事典』(雄山閣出版 昭和59年)の「南海」の項には「山崎氏。海野勝珉の門人。東京府住。明治・大正」とある。同書によれば山崎姓の海野勝珉の門人には「珉斎」もおり、「山崎氏。富之丞という。明治九年(一八七六)十月に生れる。明治二十七年(一八九四)五月から、三十六年(一九〇三)一月まで勝珉に師事する。東京府住」と記されている。桑原羊次郎『日本装剣金工史』(荻原星文館 昭和16年)に掲載の海野勝珉系の図には「南海」はあるが「珉斎」は記されておらず、同一人物の可能性もあろうか。
上田令吉はその著書『根附の研究』(昭和18年、金尾文淵堂)において、浜野政随、土屋安親らを例に挙げ、彫金家が余技として木竹その他の材料で根付彫刻をした例が多いことを述べている。また、本山荻舟『近世数奇伝下巻』(博文館 昭和17年)は、刀工としてだけでなく、木彫や漆芸の分野でも優れた作品を残した逸見東洋が、目や脚を可動とした木製の蟹を製作したことを伝えている。海野勝珉の門人「山崎南海」が牙彫伊勢海老の山崎南海と同一であるかはわからないが、これらの例はその可能性を示すものとしてとらえられよう。
高瀬好山のカモメをモチーフとした釣香炉の作品が、小冊子『京都の工藝』に掲載されている。この小冊子はその序文から「京都工藝品見本市協會」により、「京都工藝品宣傳即賣大會」の目録として昭和6(1931)年に作成されたとみられる。
「京都府、市、會議所後援 京都工藝品宣傳即賣大會を開くにあたりて」と題した序文には、以下のような記述がある。
さきに京都工藝美術協會が成立して製作者の指針に貢献してゐますが、一方京都工藝の産業的寄與のために私共は相謀つて本協會を設立し、現代人の趣味に投じ實用に適する價値ある工藝品の生産に努めると同時に弘く一般に宣傳して需要を促し販路を開柘(原文ママ)することに衷心の希望をもつものであります
京都府立総合資料館編『京都府百年の年表 8 美術工芸編』(京都府 1970年)によれば、京都工芸美術協会は昭和5(1930)年7月29日に創立総会が開催され、「京都の各種美術工芸団体を統一する」ことを目的とし「帝展第4部に対抗すべき京都工芸美術展を毎年開催を企画」していたという。序文には「今回烏滸がましくも帝都に進出して私どもの念願が如何程まで受け容れられるか」ともあり、京都工芸品見本市協会が京都工芸美術協会とともに東京にも販路を広げることを目指していたことがうかがえる。京都工芸美術協会による京都工芸美術展覧会の第三回(1932年)、第四回(1933年)展は、いずれも日本橋三越で開催されていることが出品目録から確認できる(1)。『京都の工藝』には「京都工藝品宣傳即賣大會」の開催場所については記載がないが、東京で開催されたのであれば、これらの展覧会の嚆矢となるようなものであったと推測される。
『京都の工藝』に掲載された高瀬好山の釣香炉は作品名が「墨堤都鳥釣香炉」となっている(図1)。このことから正確には都鳥、すなわちユリカモメがモチーフであるとみられる。在原業平の歌から京都と東都を同時に想起させるモチーフおよび作品名は、東京への進出を意識したものであったのかもしれない。好山の鳥をモチーフにした釣香炉は嘴と羽の一部を可動とした銀製の丹頂鶴の作品が知られており(2)、「墨堤都鳥釣香炉」も同様の作りであると思われる。高瀬好山工房で作品の実制作を担っていたのは冨木家の工人であったが、近年まで自在置物の制作を続けていた同家の宗行氏から伺ったところでは「ローマ法王に献上されたカモメの自在置物がある」とのことであった。それはこの作品か、あるいは同様の作品であったのかもしれない。
高瀬好山の作品で『京都の工藝』に掲載されているものは他に蘭の置物、伊勢海老の自在置物がある。伊勢海老は作品名が「長楽無極置物」となっている(図2)が、これも国内需要に向けて縁起の良さを想起させることを図ったものであろうか。さらに、高瀬好山は京都工芸品見本市協会役員の理事としても名が記載されている(図3)。理事長は西村象彦となっており、ドイツで学んだ久米権九郎図案の象彦の洋家具の写真も多数掲載されている。
註
以前のブログ記事「板尾新次郎と1900年パリ万博」は、板尾新次郎の作品の1900年パリ万国博覧会への出品についてのものであったが、訂正があり未整理なものになっていた。その出品作に博覧会事務局から製作費の補助があったことが判明したので、改めて整理してみることにする。
1893年にシカゴ万国博覧会に鷲の自在置物を出品した板尾新次郎(板尾清春)が1900年のパリ万国博覧会に出品した作品は、同博覧会公式カタログ “Catalogue général officiel, Exposition internationale universelle de 1900” に以下の二点が確認できる(1)。
第十五部第九十四類 Itao (Kiyoharu), à Osaka. - Argent repoussé : Perroquet.
第十五部第九十七類 Itao (Kiyoharu), à Osaka. - Fer incrusté d’or : Paon.
金銀細工や七宝の出品区分である第十五部第九十四類に出品された前者は、「銀製の打ち出しの鸚鵡」で、星野錫編『美術画報 臨時増刊 巴里博覧会出品組合製作品』(画報社 1900年1月)に掲載されている銀製の鸚鵡がこの作品であろう。板尾新次郎は明治28年の第四回内国勧業博覧会に、この掲載作品と同様の作品を出品し、妙技三等賞を受賞している(2)。
一方、後者は金の象嵌を施した鉄製の孔雀の作品であり、出品された第十五部第九十七類は青銅、鋳鉄、打ち出しの金工作品のための出品区分であった。『官報』第5638号「巴里萬国大博覧会本邦出品者受賞人名」(明治35年4月24日)で銀牌受賞が伝えられている「金象眼置物」は第十五部第九十七類となっており、この作品であったと考えられる。この鉄製の孔雀は、博覧会事務局が実施した製作補助金の支給を受けた作品とみられる。「先ツ圖案ヲ提出セシメ、漸次ニ補助金額ヲ定メ、製作ヲ命シタルモノ」として、「板尾新二郎」(ママ)の鉄製の「孔雀ノ圖置物」が『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告 上』(農商務省 明治35年)に記載されている(3)。
『MUSEUM 東京国立博物館美術誌』152号(1963年11月)所載の下村英時「奇工板尾新次郎伝ー恐るべき伝統技術の闘争史ー」には板尾新次郎は鸚鵡の他に梟や孔雀の作品も制作していたとの記述がある。板尾新次郎による「孔雀ノ圖置物」と大英博物館が所蔵する鉄製の孔雀の自在置物との関連が注目されるほか、銀製の鸚鵡は賞を逃し、鉄製の孔雀が受賞作となったことは、両者の素材の差によるものなのかも興味深いところである。
(註)
第四回内国勧業博覧会審査報告 第二部』(第四回内国勧業博覧会事務局 明治29年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801947/70
鍛金の作品では板尾新次郎のほかに、黒川栄勝「銀製雌雄丹頂鶴置物」、山田長三郎(山田宗美)「蓮ノ圖花瓶」がいずれも五百円の補助金を得ている。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801822/416
鈴木長吉の手による青銅製の龍の自在置物について伝える1899年の米紙 Los Angeles Herald の記事については、以前に「鈴木長吉の龍自在置物」としてブログ記事にした。その後の「鈴木長吉出品の鉄製龍自在置物」では、1893年の The Japan Weekly Mail の記事にこの龍とみられる作品に関する記述があることを紹介し、「鈴木長吉の鷲とEaglemania展」では2019年にボストン・カレッジの McMullen Museum of Art で開催された展覧会 Eaglemania: Collecting Japanese Art in Gilded Age America の図録において、1899年の Los Angeles Herald の記事に言及していることを記した。
その根拠については後述するが、1981年にSotheby’sのオークション THE LATE CHINGWAH LEE COLLECTION, San Francisco FINE ORIENTAL ART に出品された龍の自在置物は、それらの記事で伝えられた鈴木長吉の作品である可能性が高いとみられる。オークションカタログには Lot 51 FINE AND RARE articulated bronze dragon として2枚の写真が掲載されている。
現在、東京国立博物館の常設展示に自在置物が多数出ています。
金工
本館 13室 2020年9月15日(火) ~ 2020年12月13日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=6178
今回は明珍宗察の龍の自在置物とともに、同作の甲冑金具も展示されています。この甲冑金具は以前に東京国立博物館のブログで紹介されたもので、博物館内でその存在が明らかになったのは最近のことのようです。https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2015/07/03/%E8%87%AA%E5%9C%A8%E7%BD%AE%E7%89%A9/
明珍宗春の作とされる鷲
鈴木長吉はシカゴ万国博覧会に出品され重要文化財にもなっている「十二の鷹」「鷲置物」を手がけ、帝室技芸員にもなっているが、これまでその人物像はほとんどわからなかった。この大日本歌道奨励会の雑誌『わか竹』の1908~9年に掲載された記事では、自身の言葉で美術について語っている。佐賀藩鍋島家の鍋島直大は大日本歌道奨励会の会長も努めており、起立工商会社以来の佐賀藩人脈ということからの掲載かもしれない。博覧会出品作の製作のような華々しい活動のみられなくなった長吉の後半生にあたる時期のものであり、当時の状況もうかがえる。非常に興味深いこの記事について、その概略を紹介したい。
鈴木長吉「將來の美術品」『わか竹』(第七号 大日本歌道奨励会 1908年)
◎現代の美術品が古代のそれに及ばぬ理由
◎其の矯正は如何にすべきか
◎現今の鋳造界
◎今後の美術家
◎鑄造物鑑定について
今日の美術品に日本各地の独自性がなくなってしまうことはその衰退の原因になると説き、各地固有の美術の発達が必要であるとし、一例に佐渡の初代宮田蘭堂とみられる人物をあげている。鋳造の現状については、ある銅像の製作のために自分の弟子の一人を派遣したところ、現場を指揮していた美術学校出身の技師長は「自分の弟子と弟子兄弟であつて而も下弟子」で技術は派遣した弟子の方が優れていたため揉めることになり、長吉が指揮することで事態を収めることになった、というような有り様を冷ややかに見ており、「大村や西郷、其の他の銅像は自分などから云はすると、何うも善い出来とは云はれぬ、一體美術品でもなく、銅を伸した飴細工のやうな物を、観る目がないからでもあらうが、切(しき)りに有り難がつて居る連中があるのは沙汰の限りである」と手厳しい。
鈴木長吉「美術鎻談」『わか竹』(第二巻第二号 大日本歌道奨励会 1909年)
この記事は冒頭に記者が築地に鈴木長吉を訪問したとの注釈があり、長吉による「富士山の模型」(三の丸尚蔵館年報・紀要 第18号によれば、長吉は明治27年に陸軍省からの委嘱で「銀製富士山二万分ノ一模型」を製作している)に触れ、客室の床の間には渡邊省第(渡辺省亭であろう)の富岳の掛軸が飾られていたとも記している。
「學校厭(ぎら)ひ」と世間の人から言われていることを認めており、美術学校には思うところがあったことがうかがえる。絶対的に否定はしないとは言いながら、「今の學校は程度が低い」ために、学校を出てすぐには相当の収入を得られず、鍛錬するための時間と金がないため劣悪な作品が生まれると指摘し、「美術学校を、卒業したからとて、其れで一個の美術家に成り得たと思ふのは、大なる誤解です」「鍋釜製作人の裡からでも、立派な美術家は出るものです」とやはり批判的である。
「先年文部省で、美術は四種類の上を出でず、即ち油畫日本畫木刻土細工、と佛國の例を取つて、日本でも左様にして、其等のみ博覧會にも、陳列しようと企てられた」ことに対し、「材料の如何に關らず、苟も人を娯(たのし)ましめ、面白いと感ぜしむる物は、美術であつて、右様に限つて了つて其等のみを、土臺と爲たならば、西洋各國の下に、皆平伏して終はなければならないのでしやう」「凡そ美術の範圍を、矢鱈に狭めるは、馬鹿な話だと思ひます」と述べている。
日本では美術学校を卒業しても作品が地金代にもならないといい、「學校も作り、美術家には補助をして、成功を助けていくと云ふのが」得策であり、「元来美術と云ふものは、一種の道楽で」「美術家は皆貧乏に限つて居たようなもの」「補助奨励の道を、講じてやるのは、最も必要である」と説く。その奨励の一例として、佐野伯(佐野常民)が自腹を切り、ある画家に画題になりそうな諸所を見物させたという逸話を引いている。
鈴木長吉「續美術瑣談」『わか竹』(第二巻第四号 大日本歌道奨励会 1909年)
まず、維新前の諸大名、長吉がこの職業に就いた頃の西洋人のような美術家の保護者は今日では存在しないと述べる。現在では珍しい作品は作られないため売れず、海外で日本の作品を模倣したものもよく出来ており、どのみち多くの作品を売ることは望めないならば、外国向けの作品は作らない方がよい、との旨を語っている。珍しいものであれば小口でも売れるので、将来はそうした方向性の大美術家を養成すべきということらしい。「到底日本人が西洋のに、真似た所で追附かぬから、矢張り日本固有の物をやつて、彼方のよりも進歩し、發展して行く様に力めなくては駄目です」と説いている。また、西洋の美術家の勉強熱心さ、対照的な日本人の不熱心さをドイツ人の例を挙げて示している。
最後は「何うせ美術なんてうものは、道楽業ですから、何か本職を持つて居つてやる可きものでしやう」「先づ工業などをやつて、それから道楽に試みたが宜いでしやう」と述べている。道楽が本職になれば理想だが、全てがそう上手くはいかないとのことである。竹童(岸竹堂と思われる)は友禅の絵を描き、是真も蒔絵を本職にして絵を描いていたとの例を挙げ「斯様な例は洋の東西時の古今を問はずよくあるものです」と締めくくっている。
なお、フィラデルフィア万国博覧会に出品された鈴木長吉の香炉の背後には岸竹堂の「大津唐崎図屏風」が配されていたとみられる。https://libwww.freelibrary.org/digital/item/1522
【追記】
起立工商会社時代の鈴木長吉についても不明なことが多いが、中村惣左衛門は鈴木長吉のもと起立工商会社の銅器製造工場で働いていたとみられる。
『人物と其勢力』(毎日通信社 大正4年)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946316/124
『第五回観古美術会出品目録 第二号』(有隣堂 明治17年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849466/16
左:象牙製自在置物 山崎南海「伊勢海老」 三井記念美術館「驚異の超絶技巧!-明治工芸から現代アートへ-」展
右:『第三回内国勧業博覧会褒賞授与人名録』(内国勧業博覧会事務局 明治23年)より
褒状授与された作品に加藤甚之助「牙製伸縮蝦置物」が確認できる
ボストン・カレッジの McMullen Museum of Art で開催中の展覧会 Eaglemania: Collecting Japanese Art in Gilded Age America に鈴木長吉の鉄製の鷲が出品されています。
展覧会図録が出ていたので早速購入。図録の表紙になっているのは1954年に設置され、ボストン・カレッジの象徴となった青銅の鷲。経年の傷みにより1993年に複製品が作られ交換されて以降は、いくつかに分割された状態で保管されていました。近年その価値が注目され修復されるに至り、今回の Eaglemania 展もそれに伴って企画されました。
修復された鷲は明治時代の日本で作られ1897年に米国にもたらされたものとのことで、この作品を語るにあたっては、鋳金による猛禽類の作品で名高い鈴木長吉への言及は当然ともいえるでしょう。本展図録所載の論考 “Suzuki Chōkichi: Master of Metal Raptors” の中で、先に触れたメトロポリタン美術館蔵の鈴木長吉作とされる鷲についても述べられています。鋳金家である鈴木長吉にとって専門ではない鍛鉄の技法により作られたこの作品に関しては、「鈴木長吉出品の鉄製龍自在置物 Articulated Iron Dragon by Suzuki Chokichi」で紹介した内容も用いた解説がされていました。この鷲は無銘とのことですが、鈴木長吉が鉄製も含めた自在置物の制作をしていたとみられることや、1903年にこの作品を購入した Steers氏がメトロポリタン美術館館長宛の手紙に記したという「東京の帝室技芸員」についての記述などを合わせると、実製作は自身の手によらなかったとしても、工房作品として鈴木長吉の作であるとするのは妥当だといえるでしょう。
最近確認したのですが、明治18年の第六回観古美術会の出品目録に「新物品」として、鈴木長吉の「銕製鷲置物」が記載されています。「自作」とあるものの、この作品についても実作者という意味ではないと推定されるでしょう。
1903年に東京美術学校で開催された「第一回美術祭」では各学科ごとに祭神を定め、遺蹟展覧会としてそれぞれの祭神に因んだ遺作や遺物が展示されました。鍛金科は甲冑師一派明珍家の明珍信家が祭神となっています。『風俗画報』(279号 東陽堂 1903年)に掲載の「美術祭」と題された山下重民の記事によれば、各科で祭神とされたのは以下のとおり。
日本画科 狩野芳崖
西洋画科 ラファエロ
彫刻科 野見宿禰
図案科 尾形光琳
彫金科 後藤祐乗
鍛金科 明珍信家
鋳金科 石凝姥命
漆工科 本阿弥光悦
同記事には遺蹟展覧会出品目録の記載もあり、鍛金科による明珍信家およびその系統品の出品は次のようになっています。
伸縮龍 一個 矢吹秀一出品
兜 一個 東京帝室博物館出品
鐵弓矢透鍔 一枚 同
鐵籠目鍔 一枚 同
兜 一個 和田幹男出品
信家系統品 今村長賀出品
同 前田侯爵家出品
同 秋元子爵家出品
矢吹秀一出品の「伸縮龍」は自在置物とみてよいでしょう。岡倉天心が海外での明珍の作品の高い評価を目の当たりにして感銘を受け、東京美術学校に鍛金科が新設されるにあたり自在置物を製作する板尾新次郎に教師となるよう働きかけた(1)ことを考えると、この美術祭で明珍信家が鍛金科の祭神とされ、自在置物が展覧会に出品されたことは興味深いところです。出品者の矢吹秀一は江戸浅草に生まれ、一橋家家臣の養子となり徳川慶喜に仕えたのち、陸軍軍人となっています(2) 。旧幕臣がこうした作品を所蔵し、このような場で展示したことも、自在置物の当時の国内での評価を輸出工芸品とは異なった面から考える上で注目すべき点でしょう。
笹間良彦『新甲冑師銘鑑』(里文出版 2000年)には明珍信家銘の龍の自在置物の写真が掲載されていますが、この龍の作者の信家については、「江戸時代末期から明治頃 住地不明」「鐔工か甲冑鍛工か不明」となっています。同書によれば、室町時代末期の甲冑工明珍信家は「江戸時代初期に明珍家が、義通・高義と共に明珍家の三名人として喧伝したため、信家を需める者が増え、それに応じて信家の偽作が多く作られた」ため、「有名であるにもかかわらず、経歴も住地も曖昧で、かつ遺物が頗る多い」とのことで、真正の作を判定するための定説もみられないとしています。また、鐔工の信家も存在しており、宣伝により明珍信家が有名になったことで信家を名乗る者もいたとのこと。明珍信家を名乗った自在置物の製作者もまた、その有名さにあやかった可能性が考えられます。
愛知県美術館の木村定三コレクションにも信家銘の蟷螂の自在置物があり、箱蓋表に「拝領品/明珍信家作/奥村家御所蔵」、箱蓋裏の貼紙には信家の由緒が記されていますが、室町時代の信家とは別人によるものとされています(3)。この作品と矢吹秀一出品の遺蹟展覧会出品作、『新甲冑師銘鑑』掲載作が同じ作者によるものかはわかりませんが、これも信家の名がブランドのようになっていたことが自在置物にも影響していたことを示すものかもしれません。
(註)
1.「近代日本における金工家教育に関する一考察 - 帝室技芸員と東京美術学校を中心に - 」
(『茨城大学五浦美術文化研究所報 第13号』横溝廣子 1991年)
2. 近世名将言行録刊行会編『近世名将言行録 第2巻』(吉川弘文館 1934年)
国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223772/180
3. 愛知県美術館『研究紀要22号 木村定三コレクション編』《木村定三コレクション「金属工芸」調査報告目録》
https://www-art.aac.pref.aichi.jp/collection/pdf/2015/apmoabulletin2015kimurap50-156.pdf
「鉄蟷螂」作品情報
ロシアのクンストカメラ所蔵の鯱の自在置物がオンライン公開されています。
http://collection.kunstkamera.ru/entity/OBJECT/106407
作品の情報によるとニコライ2世による収集となっています。ニコライ2世は皇太子時代に訪日した際に「鉄明珍作竜置物」を購入した記録があるとのこと(保田孝一『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記 増補』【朝日新聞社 1990年】による)。それがこの自在置物かもしれません。
「鉄明珍作竜置物」はニコライ2世の日本到着(長崎入港)の翌日、1891年4月28日に一般の骨董店で買い上げられたようです。この頃にはすでに日本でも自在置物が注目されていたので、海外向けに作られたものであった可能性も考えられそうです。
以前に「高瀬好山傳」についての記事で好山のパリ万国装飾美術工芸博覧会への出品にも少し触れましたが、1929年開催の巴里日本美術展覧会、1930年のリエージュ産業科学万国博覧会への出品も確認できました。「明治期自在置物の博覧会等出品年表」と重なる部分もありますが、この項では自在置物に限定せず、それらの高瀬好山の博覧会や美術展覧会への出品についてまとめ、新たに確認できたものは随時追加していきます。
(Last updated: 21 Jan. 2019)
1893年にシカゴ万国博覧会に鷲の自在置物を出品した板尾新次郎(板尾清春)は1900年のパリ万国博覧会にも作品を出品しています。星野錫編『美術画報 臨時増刊 巴里博覧会出品組合製作品』(画報社 1900年1月)には銀製の鸚鵡の自在置物が掲載されていますが(画像)、他の国内の資料では「置物」あるいは「金象眼置物」という表記が確認できるのみです(1)。
そこでインターネット公開されているパリ万国博覧会公式カタログ “Catalogue général officiel, Exposition internationale universelle de 1900” にあたってみたところ、板尾新次郎の出品についての記載は以下のとおりで、鉄に金象嵌の孔雀の作品が出品されたことがわかります。(2)。
Itao (Kiyoharu), à Osaka. - Fer incrusté d’or : Paon.
この作品が出品された第十五部第九十七類は青銅、鋳鉄、打ち出しの金工作品の出品区分であり、同じ区分にあたるであろう前述の銀製の鸚鵡は記載がないことから出品されなかったとみられます。おそらく板尾新次郎のパリ万国博覧会出品作はこの一点のみであり(追記参照、銀製の鸚鵡の出品記録も確認できます)、同作品が銀牌受賞作であったと考えられます(3)。『MUSEUM 東京国立博物館美術誌』152号(1963年11月)所載の下村英時「奇工板尾新次郎伝ー恐るべき伝統技術の闘争史ー」には板尾新次郎は鸚鵡の他に梟や孔雀の作品も制作していたとの記述があり、パリ万国博覧会出品作もまた自在置物であったものと推測できます。そうであるとすれば、大英博物館が所蔵する鉄製の孔雀の自在置物との関連についてもあらためて注目したいところです。
板尾新次郎は明治28年の第四回内国勧業博覧会に『美術画報 臨時増刊 巴里博覧会出品組合製作品』掲載作と同様のものとみられる銀製の鸚鵡自在置物を出品し、妙技三等賞を受賞しています(4)。国内ですでに高い評価を受けていたにもかかわらず、この銀製の鸚鵡が出品されなかった理由については一考の余地があるでしょう。これまでにもふれてきましたが(5)、海外での高評価から自在置物が日本国内でも美術品として注目されるようになったとき、甲冑師一門「明珍」の技術によるものであることが国威発揚および海外への作品販売における利点として意識されるようになり、結果としてその素材は甲冑と同じ鉄製のままであることが望まれるようになったとみられます。板尾新次郎のパリ万国博覧会出品作が「銀」の鸚鵡ではなく「鉄」の孔雀であった理由もそこにあるとすれば、自在置物の作品に対しては国内での評価とはまた別に、対外的には依然として鉄製であることが求められた可能性が考えられるでしょう。
2018/2/9 追記
金銀細工や七宝の出品区分である第十五部第九十四類に銀製の鸚鵡も出品されていたことを確認しました。
http://cnum.cnam.fr/CGI/fpage.cgi?12XAE54.17/145/100/831/16/830
原文表記は以下のとおり。
Itao (Kiyoharu), à Osaka. - Argent repoussé : Perroquet.
銀の打ち出しの鸚鵡となっています。板尾新次郎は打ち出しによる作品製作が特徴であることや、同じく鳥の作品であることから、鸚鵡の出品があったとすれば鉄の孔雀と同じ区分に出品されているものとの思い込みがありました。
『官報』第五六三八号「巴里萬国大博覧会本邦出品者受賞人名」明治三十五年四月二十四日で銀牌受賞と伝えられている「金象眼置物」は第十五部第九十七類からの出品となっており、鉄の孔雀であったと考えられます。異なる区分で出品された鉄の孔雀と銀の鸚鵡の受賞の有無の差が、本文中で述べたような素材による評価の違いに基づくものかどうかも興味深いところです。
ボストン美術館蔵の龍自在置物(画像)は高石重義の在銘作品として知られる唯一のもの。これまで主に以下の記事で触れてきましたが、高石重義の龍自在置物は1900年パリ万国博覧会に出品されたとみられます。
・高石重義の龍自在置物 Articulated iron dragon by Takaishi Shigeyoshi
・ダブル・インパクト 明治ニッポンの美 Double Impact: The Art of Meiji Japan
これらの記事では「日本国内の展覧会で受賞歴がある『Takaishi Shigeyoshi作の鉄製の可動する龍』」を1900年のパリ万国博覧会で購入したというオランダ国立民族学博物館の記録があること、その龍は第十四回彫刻競技会での受賞作である可能性が高いことについて述べました。高石重義の龍がパリ万国博覧会に出品されていたとすると、どのような経緯で出品に至ったのでしょうか?
『明治期万国博覧会出品目録』(1997年 東京国立文化財研究所)所載のパリ万国博覧会出品目録ではこの作品と思われるものの記載は見出せませんでしたが、大熊敏之「明治”美術史”の一断面 ー 一九〇〇年パリ万国博覧会と宮内省」『三の丸尚蔵館年報・紀要 創刊号』(1996年 宮内庁)によれば明治32年秋、臨時博覧会事務局は急遽「第十四回東京彫工会彫刻競技会から十七点を出品作として選出した」とのこと。高石重義の龍自在置物は同競技会で銅賞を受賞しており、そのうちの一点であった可能性があるのではないかと考えていましたが、今回確認した『美術評論』第二十二号(明治32年11月)「時文 巴里万國博覽會に對する美術作品」にはその内訳が記載されており、その内容は以下の通りでした(表記は原文のまま)。
木彫 老翁 平櫛偵太郎
同 小原女 森鳳聲
同 婦人 渡邊長男
同 少女 三橋淸
同 老婆 中村直彥
同原型 婦人 山田政治
鑄金 小供 蟹谷國晴
銀製 虎 沼田一雅
牙彫 元祿若者 島村芳明
同 小供 森野光林
木彫 媼慈孫 山田鬼齋
同 木賊刈 林美雲
銅製 乳牛 卷野外次郎
同 驢猿 山中助美
牙彫 農夫 吉田宗壽
同 老人汲水 濱田正明
同 狼 岡田知一
選ばれた「17点」の作者の中に高石重義の名は確認できません。ところが、『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告上』(明治35年 農商務省)の記述では「東京彫工會及ヒ第十四回彫刻競技會ニ臨ミ、列品中二十八點(内木彫十點、金彫九點、牙彫九點)ニ就キ鑑査ヲ行ヒ、十八點(内木彫八點、金彫五點、牙彫五點)ヲ採定シ」となっており、『美術評論』が記している17点より1点多い「18点」が選ばれたことになっています。
『美術評論』に記載のある17点の内訳に注目すると、木彫、同原型が8点、牙彫が5点、鋳金、銀製、銅製を金彫とするならば計4点となります。『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告上』では金彫が5点となっており、(『美術評論』に記載の17点の作品については間違いがないとした上で)金彫の作品がもう一点選ばれていたとするならば、それが高石重義の作品であった可能性が考えられるでしょう。
(2018/2/7 追記)
1900年パリ万国博覧会の公式カタログ “Catalogue général officiel, Exposition internationale universelle de 1900” がインターネット公開されているのを知り、青銅、鋳鉄、打ち出しの金工作品を対象とした出品区分である第十五部第九十七類(1)を調べてみました。
結果として高石重義の名は見出せなかったものの、1893年シカゴ万国博覧会に鷲の自在置物を出品した板尾新次郎(清春)、一枚の鉄の板から複雑な形状の作品を成形する山田長三郎(宗美)という打ち出しによる動物の作品で知られる二人の他にも、”Fukuda Tokubéi” という東京の人物が「鉄打ち出しの動物」の作品を出品していることがわかりました。
板尾、山田、Fukuda の三者の出品についての原文の記載は以下の通り。
Itao (Kiyoharu), à Osaka. - Fer incrusté d’or : Paon.
Yamada (Tchôzaburô), à Ishikawa-kén.- Fer repoussé : Oiseux. Animaux. Vases. Brûle-parfums, etc.
Fukuda (Tokubéi), à Tôkiô. - Fer repoussé : Animaux.
板尾新次郎、山田宗美とは異なり、鉄打ち出しの作家として名が知られていない Fukuda Tokubéi は自身では作品制作をしない出品人であったとみるべきであり、高石重義の作品の出品人であった可能性が考えられるでしょう(2)。この Fukuda Tokubéi と同一の可能性がある人物としては、第二回、第三回の内国勧業博覧会に金工作品を出品し、出品記録の「神田元柳原町」「京橋区木挽町二丁目」との記載から東京の人物である点も一致する「福田徳兵衛」が確認できるほか(3)、原田道寛編『大正名家録』(二六社編纂局 大正4年)には、刀剣商であった「神田区柳原町福田徳兵衛」の長男として明治7年に生まれたという、法学博士福田徳三の履歴がみられます(4)。高石重義が明治32年の東京彫工会第十四回彫刻競技会に龍自在置物を出品した際の記録には「東京府」と記されており、第十二回彫刻競技会には刀身彫刻の作品とみられる「刀剣切物」を出品(5)しています。刀剣商福田徳兵衛が高石重義の作品の出品人であったと推測するならば、ともに東京の人物であり刀剣との関わりを持つという共通点は、その推測を補強する材料となるでしょう。
日本美術に非常に造詣の深かったブリンクリーは、その著書における板尾新次郎、高石重義についての記述で自在置物についてもふれており(6)、高石重義については「元は刀装金工であり刀身彫刻にも秀でていたが、現在は鉄の龍や海老、蟹などの製作者として称えられている」との旨を記しています。パリ万国博覧会の公式カタログにおける Fukuda Tokubéi の出品は “Animaux” と複数形の表記になっており、動物の種類は特定されていません。この出品作が高石によるものだとすれば、龍以外の作品もあわせて出品されたためにこの表記になったとも考えられるでしょう。ブリンクリーによる板尾新次郎、高石重義についての記述には、彼らの作品の多くは「明珍」の作品として販売されたともあります。対外的には自在置物の当代の作者について詳らかにすることを極力避けるために、 すでにシカゴ万国博覧会へ出品し実績のある板尾新次郎とは異なり、これまで自在置物の作家として無名であった高石重義はその名を伏せての出品となったのかもしれません。
(註)
(1)公式カタログ、第十五部第九十七類の日本の出品。
URL http://cnum.cnam.fr/CGI/fpage.cgi?12XAE54.17/316/100/831/16/830
(2)なお、東京国立文化財研究所美術部編『明治期万国博覧会美術品出品目録』(中央
公論美術出版 1997年)所載の『千九百年巴里万国博覧会出品聯合協会報告』(同出
品聯合協会残務取扱所刊、明治三十六年、東京国立文化財研究所蔵)に基づく出品目
録、星野錫編『美術画報 臨時増刊 巴里博覧会出品組合製作品』(画報社 1900年1
月)、『官報』第五六三八号「巴里萬国大博覧会本邦出品者受賞人名」明治三十五年
四月二十四日 には Fukuda Tokubéi に該当する名前は見当たらない。
(3)東京国立文化財研究所美術部編『内国勧業博覧会美術品出品目録』(中央公論美術
出版 1996年)による。第二回内国勧業博覧会では出品人として数名の製作者の作品
を出品している。
(4)国立国会図書館デジタルコレクションの該当ページ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954637/499
(5)東京文化財研究所編『近代日本アート・カタログ・コレクション 第2期 086
東京彫工会 第2巻』(ゆまに書房 2008年)による。
(6) F. Brinkley, Japan, Its History, Arts and Literature, Volume 7, Author’s Edition, Boston ; Tokyo, J.B. Millet, 1902. このエディションには彫金工の名鑑も収録されており、それ
に記載されている(高石は Takaiishi との表記)。インターネット公開あり
https://archive.org/stream/japanhistoryarts07briniala#page/26/mode/2up 。
パリ万国博覧会から程なくの刊行であることを考えると板尾新次郎、高石重義の両名
が自在置物の製作者として掲載されているのは興味深い。
ブリンクリーと日本美術の関わりについては エレン・P・コナント「フランク・ブリ
ンクリー大尉」,『ナセル・D・ハリリ・コレクションー海を渡った日本の美術』(第
1巻・論文編 同朋舎出版 1995年)が詳しい。
画像は2005年にパリのクリスティーズオークションに出品された鉄製の雉の作品です。
ARTS D'ASIE
22 November 2005, Paris
FAISAN EN FER
JAPON, PERIODE EDO, SIGNE MYOSHIN MUNEAKI, FIN DU XVIIEME-DEBUT DU XVIIIEME SIECLE
残念ながら銘の画像などはないのですが、解説によればミョウチン・ムネスケの弟子のムネアキ銘となっています。おそらく東京国立博物館の龍自在置物で知られる明珍宗察の作品ではないかと思われます。
前回記事に引き続き、三井記念美術館「驚異の超絶技巧! -明治工芸から現代アートへ」展についてです。今回は出品されている自在置物について、さらに踏み込んで見てみましょう。
先日、三井記念美術館で開催中の特別展「驚異の超絶技巧! -明治工芸から現代アートへ」のブロガー内覧会(写真撮影可)に参加してきました。
知らなかったのですが、メトロポリタン美術館に鈴木長吉の「鉄製」の鷲の作品があったのですね。頭と爪は鋳造ですが、その他の部分は明珍の作品のように別々に制作した鍛造部品を鋲留めしてあるそうです。無銘ではあるものの、1893年のシカゴ万国博覧会に出品予定であったとのこと(画像は The Metropolitan Museum of Art のオンラインコレクションより)
http://www.metmuseum.org/art/collection/search/22137
少し前のブログ記事でも触れましたが、同年10月21日の"Japan Weekly Mail"の記事に鈴木長吉の工房に鉄製の鷲が置かれているとの記述があります(以下は同記事からの抜粋)。
"Another powerful occupant the same ateliar is an iron eagle, life sized with outstretched wings and wonderfully chiselled plumage. SAITO's flexible necked eagle, now in the World's Fair at Chicago seems to have suggested this work, but the SUZUKI eagle now on view in Irigune cho is happily free from the pigeon-like affinities of the Exposition bird. It is a veritable eagle, fierce, meagre ,alert, and pitiless, just such and bird as SHELLEY conceived "sailing incessantly with clang of wings and scream" in lonely lands."
鈴木長吉の工房を訪れて書かれたこの記事では、シカゴ万国博覧会に出品された"SAITO's flexible necked eagle"、すなわち斎藤政吉出品の板尾新次郎作の鷲自在置物にも言及した上で、鈴木長吉の工房の鷲をそれよりも優れたものとして絶賛しています。"outstretched wings" とあるように翼を広げた姿であるとの記述もあり、メトロポリタン美術館の鷲と同一作品である可能性も考えられるでしょう。
シカゴ万国博覧会に出品されなかったのは、やはり板尾新次郎が出品した鉄製鷲自在置物との競合を避けたからかもしれません。いずれにせよ、この鷲は鈴木長吉に明珍の鉄製の作品が影響を与えたことを示す貴重な現存作品といえるのではないでしょうか。
帝室技芸員でもあった鋳金家・鈴木長吉が自在置物の作品も制作していたことは何度か触れてきましたが(ブログカテゴリ「鈴木長吉」を参照されたし)、明治22年の日本美術協会美術展覧会の出品作に鉄製龍自在置物とみられるものがあることを確認しました。
前年の明治21年の日本美術協会展覧会には古美術品の自在置物の出品が多数ありましたが、その翌年に鈴木長吉が新製品としてこのような異色な作品を出品をしていたことは大変興味深いところです。
明治期の自在置物の博覧会等への出品についての年表を更新しました。
今回追加したのは日本美術協会の明治24年美術展覧会に同会会頭の佐野常民によって出品された「鐵製屈伸蟹鎮紙」。鎮紙という名称ですが、「屈伸」とあることから蟹の自在置物と見てよいでしょう。
「驚きの明治工藝」展グッズにも蟹自在置物ペーパーウェイトがありましたが、ある意味歴史的に正しいものといえるのではないでしょうか。
明治21年、前年に龍池会から改称した日本美術協会による初めての展覧会において自在置物が数点同時に出品されたことは以前から触れてきました(こちらの記事など)。今回はそのときの出品物を撮影したとものとみられる、東京国立博物館研究情報アーカイブズで閲覧可能な『美術会列品写真帖』について。
台湾・高雄市にある MUSEUM 50 (台湾50美術館 http://museum50.com)を見学してきました。
同美術館の概要については以下の日本語記事が判りやすく解説しています。
以前鈴木長吉による龍の自在置物について書きましたが(過去記事)、 1892年のオークションカタログに同じく鈴木長吉作とされる蟹の自在置物が記載されていました。
カタログの正式名称は以下の通り。横浜のディーキン兄弟商会のコレクションが売りに出たときのもの。
フリーア美術館の蔵品に明珍作とみられる鉢がありました。蟹や鯉で装飾されているのですが、鯉は明珍吉久の自在置物によく似ています。
http://www.asia.si.edu/collections/edan/object.php?q=fsg_F1907.35
東京藝術大学大学美術館「驚きの明治工藝」展で見るのを楽しみにしていた作品の一つがこの板尾新次郎の鷹の自在置物でした(過去に板尾新次郎について触れたブログ記事はこちら)。予想通りの精巧な作品であったことに加えて架や架垂、大緒も良好な保存状態であることが確認できました。
パネル展示もされていましたが、『日本美術画報 初編巻五』掲載の日本美術協会明治廿七年春季展覧会に出品されたものと同一かと思われる作品です(下記リンクの東京文化財研究所『美術画報』所載図版データベース参照)。
http://www.tobunken.go.jp/materials/gahou/108946.html
(追記:『日本美術協会報告』【78号 明治27年】に掲載の日本美術協会明治廿七年春季展覧会の受賞記録にはこの鷹の自在置物は存在せず)。
今回実際に作品を見てその優れた観察眼も感じられました。本展での展示を機に板尾新次郎とその作品の研究が進むことを望みます。
東京藝術大学大学美術館で9月7日から開催の「驚きの明治工藝」展を見てきました。
同展には台湾のコレクター宋培安氏のコレクションから130点あまり出品されています。このコレクションは数年前に存在を知ったときから見てみたいと思っていたのですが、こんなに早く日本での本格的な展覧会で目にする機会が訪れたことは望外の喜びでした。
この展覧会の特色の一つに自在置物の優品が多数出品されていることが挙げられます。自在置物としてはおそらく最大の3メートルもの大きさの龍が入場してすぐの場所に吊り下げられており、まずその存在感に圧倒されます。最近でこそ見る機会が増えてきた自在置物ですが、やはりこのコレクションでしか見られない珍しい作品も多く、本当に見ることができて良かったと思います(個人的に大変思い入れのある分野でもありますので)。宋コレクションでも特に収集に力を入れたジャンルではないかと思います。
国立国会図書館デジタルコレクションにある鹿島増蔵『日本産業篤士伝』(内外商工時報発行所 1933年)所載の「高瀨好山傳」を入手しました。(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213284/60)
これまで高瀬好山の伝記として知られていたのは好山工房で実際に制作に当たっていた冨木家に伝わった自筆履歴書だけで、全文を知ることも難しいものでした。この伝記はその人物像により迫ることができる文献です。スーツ姿の上半身の鮮明な写真も掲載されています。
この「高瀨好山傳」によれば、好山の父・高瀬哉武は鳥羽伏見の戦いや越後戦争にも参加した士族で維新後は陸軍に入り、名古屋で六年間勤務ののち金沢に帰郷したとのこと。好山はその長男として「金澤市櫻木町」に生まれて七歳から九歳まで父の任地であった名古屋市で過ごし、金沢に帰郷後「活眼達識の父君は、熟々時勢の推移に就て洞察する所あり、今後の日本は、何うしても産業の發達を計らねばならぬと平素力説されていたのが元となり(略)狩野派の津田南皐畫伯に師事するに至つた」とあります(津田南皐の経歴等については本文末にて詳述)。
ここで注目されるのは狩野派の絵師への師事の目的が「藝術家肌の畫家になる爲めではなく、實に繪畫を圖案化し、之を基礎として我が産業に縱事し、其の發達を計るといふことであつた」と述べられている点です。
東京国立博物館編『明治デザインの誕生 ―調査研究報告書〈温知図録〉―』(国書刊行会 1997年)に『温知図録』関連文献に記載のある人名として「阿部碧海(あべ・おうみ)」の項があります。碧海は旧加賀藩士で「明治維新に際し、士族授産のため金沢古寺町に五基の陶窯を築き、製陶場を興す」とあり、この阿部窯の画工の一人として好山が師事した津田南皐の名も記されています。また、同書所載の論考「図案と工芸職人」では石川県が『温知図録』の影響のもと早くから図案指導を取り入れていたことが示されています。以前に先述の冨木家に伝わった資料として高瀬好山直筆の鯉の図や鯉の自在置物の鱗の配列に関係するとみられる下図を目にする機会がありましたが、いくつか作例が残っている江戸期の明珍吉久の鯉の自在置物と比べて、好山の鯉がより高い写実性と同時に洗練された優美さも併せ持っているのは絵画を工芸に応用すべく学んだ好山の影響によるものではないかと思わせるものでした。昆虫の自在置物についても、蟷螂を例にするとより古い作品は翅が2枚なのに対し実物どおり4枚再現するほか、全体的な造形も写実性が格段に高まっています。さらに多種の金属を用いて着色を施すことで作品を実物に近づけていったことにも好山の意向があったとするならば、自在置物においても政府による図案指導が間接的に影響を与えていたと考えることもできるでしょう。
最近、笠間日動美術館分館の春風萬里荘に昆虫の自在置物が数点あるという話を耳にしました。そこで館に問い合わせてみたところ、作者不詳の10点(クワガタ、カマキリ、ハチ、チョウ、カミキリムシ、セミ、トンボ、バッタ3種)が存在するとのことでした。
明治期を中心として自在置物および自在置物と思われる作品の博覧会、展覧会などへの出品記録をまとめてみました(暫定版につき適宜加筆修正していく予定)。
pdf版も作成しました。こちらも随時更新する予定です。
第三回観古美術会への工商会社による出品「鐵製螳螂置物」「銅製蟹置物」追加(2019/11/05)。
(Last updated: 06 Feb. 2021)
福田源三郎『越前人物志』(明治43年)の明珍吉久の項に一部抜粋のあった佐野常民による演説の要領を入手しました。岡部宗久編『内外名士日本美術論』(鼎栄館 明治22年)に収録されています。
この演説は明治21年に龍池会が日本美術協会と改称してから初めて開催された展覧会の褒賞授与式におけるものです。岡倉天心らの海外視察の報告により甲冑師一派明珍の作品の国外での高評価が注目されたとみられるこの展覧会には自在置物を含む複数の明珍の作品が出品されており、佐野常民はその明珍を例にあげて日本美術について語っています。
展覧会に出品された越前松平家伝来の明珍吉久作「魚鱗ノ甲冑」については「其製作ノ妙ナル眞ニ優等ノ美術品ナルハ誰カ之ヲ否ト言ワンヤ而シテ其材料ハ黯黒色ノ鋼鐵ノミ以テ美術品タルノ價位ハ材料ニ關セザルヲ知ルヘキナリ」と述べ、美術品としての価値はその素材の価値によらないという意見を表明し、さらに「美術ハ國光ヲ發揚スルモノナリ國富ヲ増殖スルモノナリ」とした上で、岡倉天心が海外視察において目にしたと思われるサウス・ケンシングトン博物館の明珍作の鷲について「其初ハ尋常一様ノ鋼鐵ナルニ名工ノ手ヲ經テ優逸ノ美術品トナレバ此ノ如キ高價ヲ發ス美術ノ國富ヲ増殖スル實ニ鴻大ナリト謂フヘシ此ノ如キ名品ノ海外ニ出シハ遺憾ナリトハ雖モ之ニ由テ日本美術家明珍ノ名宇内ニ顕レ従テ日本ノ光輝ヲ發揚セシハ一大快事ナラズヤ」と述べており、高価な材料を用いることなく高額な美術品としての評価を得たことに注目していることが窺えます。明珍を「日本美術家」と表現しているところも興味深い点です。
この「サウス・ケンシングトン博物館の鷲」について、この演説では越前松平家の家臣が賜ったものが僅かな金額で売却され、その後に同博物館に高額で購入されたもので「魚鱗ノ甲冑」と同じ作者によるものとしています。しかし、実際にはこの鷲は明珍作と伝えられてきたもののそれを示す銘などはなく、「魚鱗ノ甲冑」の作者である明珍吉久によるものではないとみられます。
佐野常民が両者をともに明珍吉久の作としたことについては以下のような理由が考えられます。"The mechanical engineer. Vols. vii and viii" (1884)には英国人フランシス・ブリンクリー(河鍋暁斎とも交際のあったことが知られる)が3500ドルと評価された「ミョウチン ムネアキ」作の龍の自在置物を所有している、との記述があり、その龍は越前松平家の旧家臣の家から出たものとしています。越前松平家の明珍の作品に関する異なる話を意図的に混同することにより、佐野常民は古美術の海外流出を戒めるとともに、そうして海外に渡った作品は日本の国威を発揚するものにもなり得る、という両面を効果的に語ろうとした可能性が考えられるでしょう。
またこの明治21年の日本美術協会展覧会には明珍吉久作とみられる龍自在置物も出品されています。この展覧会に先立つ明治15年に、同じく明珍吉久作とみられる龍自在置物一点が松平春嶽により明治天皇に献上されており、日本美術協会が皇室との繋がりを強めていったことを考えるならば、海外で高い評価を受けたサウス・ケンシングトンの鷲と明珍吉久を結びつける狙いがあったことも窺えます。
日本根付研究会会報『根付の雫』2015年 第74号に「明治期の自在置物について」を寄稿しました。松平春嶽による明治天皇への龍自在置物の献上を軸に、近代日本美術として自在置物がどのような位置付けをされたのかという点に注目しつつ板尾新次郎・高石重義についても言及した内容になっています。
自在置物というと江戸時代の甲冑師の一派明珍による制作、高瀬好山による明治の輸出工芸としての展開という二点について語られる機会が多いものの両者の相関については判りづらい面があったと思います。今回は本当に少ししか触れることができなかったのですが、高瀬好山は当初から独自ブランドの確立を指向していたために「明珍」という一大ブランドに飲み込まれることなく昭和初期まで(工房の工人による自在置物の制作技術自体は現在まで)続くことができたのではないかということに思い至りました。
結局戦後長きにわたって自在置物は多くの人には知られないものになってしまいますが、他の明治の工芸品と比べても名称も定まることなくそのジャンル自体が忘れられてしまったのは興味深いところです。龍池会から日本美術協会へ改称後初めての美術展覧会において会頭の佐野常民が演説でとりあげるほど明珍の作品は注目され、のちに板尾新次郎・高石重義による自在置物は万国博覧会に出品されたにもかかわらず、なぜそのような結末に至ったのか?このあたりもいずれ詳しく書く機会があればと思います。
東京藝術大学大学美術館で開催中の「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」を見てきました。
個人的にはなんといってもチラシにも出ている高石重義の龍に注目です。首を延ばせば2メートルを超えると思われるその大きさは自在置物としては最大級。より小さな作品の方が細密さを感じさせるという点では勝るのかもしれませんが、この龍は丁寧で精巧な作りで大味な感じはありませんでした。耳や顎などの可動部分もパーツの分割部分が薄く作られ非常に滑らかな仕上がりです。
X線写真も展示されていましたが、首から胴体にかけてコイルばねが仕込んであるように見えます。思ったほど写真が大きくなかったこともあり(図録に掲載の写真も)このあたりの構造に関する部分は別の書籍などに詳しく掲載されることを望みます。
米国の電子化した新聞記事を公開しているウェブサイトで、鈴木長吉の手による青銅の龍自在置物についての記事(1899年5月)を見つけました。
岡倉天心は東京美術学校に鍛金科を新設する際、自在置物をその教育に取り入れようとしたと言われています。天心と自在置物の関係についての資料がまとまったので、とりあえず大まかに整理してみました。
(最終更新 2015年1月10日)
自在置物はその姓を近衛天皇より賜わったとの伝承を持ち、江戸時代には広く各地に分布していた甲冑師一派明珍によって多数製作されているが、作品の多くが海外に流出したこともあり昭和58年10月の東京国立博物館の特別展「日本の金工」で紹介されるまであまり知られることがなく江戸時代にどのような呼び名であったかも不明である(1)。しかし箱に「文鎮」と書かれており例外的にその名称が判明している福井の越前松平家伝来の明珍による龍自在置物は、比較的多くの記録が残っている。本稿ではそれらの記録を辿るとともに父が福井藩士であり越前松平家とも縁のあった岡倉天心が欧州視察で明珍の作品を目にしたことにより、甲冑師による工芸品という特異な存在である自在置物が明治期に美術品としてどのように再評価されたのかを考察してみる。
越前松平家伝来の龍自在置物
明珍吉久は越前に住した明珍一派の甲冑師で松平家の代々のお抱え工であった。福井市立郷土歴史博物館に無銘ではあるがその作とみられる大小2つの鉄製龍自在置物と一対の海老の自在置物があり、その他にもどの代の吉久の作かは不明であるが複数の鯉の自在置物の作品が残っている(2)。大小の龍の内、小さい方の箱には「文鎮」と書かれており『越前人物志』(福田源三郎 明治43年)において「雌雄龍の鉄製文鎮」として二代明珍吉久の作と伝えているものと同一であると思われる(3)。『平成25年秋季特別展 〈甲冑の美〉図録』(福井市立郷土歴史博物館 平成25年)中の「鉄製龍自在置物」の解説には「正徳四年(一七一四)、八代藩主松平吉邦のとき、祝儀のため江戸の藩邸に幕府老中たちを招いた際の座敷飾の記録に『文鎮 龍』とあり、自在置物がすでに用いられていたことがうかがえる」という記述がある。
『日本美術協会報告』(明治21年6号)には皇后宮陛下が行啓した明治21年5月の日本美術協会による展覧会を伝える記事があり「御休憩所ニ充タル一室」の「床脇ノ御棚ニハ松平茂昭出品明珍作鋼銕製伸縮龍」を飾ったとの記述が見られる。松平茂昭は越前福井藩の旧藩主であり、出品された「明珍作鋼銕製伸縮龍」は前述の明珍吉久作とされる龍のいずれかである可能性が高いと考えられる。
昭和4年の『旧越前福井城主松平侯爵家御蔵品入札目録』には「明珍作鐵龍置物」(図1)と「明珍作鐵龍小置物」(図2)が記載されている。写真から判断してこれらは福井市立郷土歴史博物館の2つの龍(図3)と同一のものと思われる。「明珍作鐵龍置物」の写真には「三個之内中は宮内省献上品」との記述が添えられ、もとは大中小の3つの龍があったことが推測できる。さらに「参照」として文書の写真(図4)も載せられている。これは宮内卿徳大寺実則から松平茂昭の先代の福井藩主であった松平春嶽に宛てた書状と考えられ、天覧に供された「銕製竜明珍一個」を明治天皇が手許に置きたいと思し召している、ということを伝えるものとみられる。その内容は以下の通りである。
銕製竜明珍一個
右被供
天覧候処
思召被為叶候間
御留置被遊候
条此旨小官より可
申演
御沙汰候仍右之段
意
得貴□候敬具
十二月廿三日
宮内卿実則
松平正二位殿
福井県文書館 「文書館叢書第8巻『越前松平家家譜(かふ)』慶永5 URL: http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/2010bulletin/shousho8_03.pdf」の明治15年12月19日の記事中に春嶽が参内した際(天覧に供した上で明治天皇がお望みならそのまま献上すべく)持参した「鉄製竜明珍作壱箱」を宮内卿に預けたという記述がみられるため、「十二月廿三日」と記されたこの書状は明治天皇がそれをそのまま手許に留めておきたいとのご意向であることを伝えたものだと考えられる。また「福井市立郷土歴史博物館名品図録」(福井市立郷土歴史博物館 昭和58年 PDF)には大きい方の龍が明珍吉久作「鉄製龍の置物」として記載されており、その解説にも二代明珍吉久作のものとして「松平家より明治天皇に献上された龍の置物」があるとの記述が見られる。先に触れた『旧越前福井城主松平侯爵家御蔵品入札目録』中の記述に基くならば、その献上された「龍の置物」は大中小の3つ存在したと思われる龍の内の「中」の龍であることが考えられる。
『美術商の百年 東京美術倶楽部百年史』(東京美術倶楽部 平成18年)によればこの昭和4年の旧越前福井城主松平侯爵家御蔵品入札において「明珍作鐵龍小置物」は二千八百三十円の値で落札され、一方「明珍作鐵龍置物」は「五万余円の札が入ったに関わらず親引き」となったという。同書によればこの入札の最高値は「碪青磁浮牡丹耳付花生」の三万八千八百円であり、それと比較しても相当の高額な入札であったことがわかる。この「親引き」となった明珍作の龍置物について同書では『書画骨董雑誌』(昭和4年4月号)の明珍吉久を紹介する記事を引用しており、次のような記述が見られる。
「越前松平侯爵家の蔵品入札の際に、二代明珍吉久作の鉄製屈伸自在の龍の小置物が在ったが、五万余円の札が入ったにもかかわらず、意に満たなかったのであろう、親引きとなって再度松平家の庫中へ戻ることになり、鑑賞家の目を睜らしめた」
「二代小左衛門吉久は越前松平家抱えの甲冑師で(中略)名工の聞こえ高く(中略)海野勝珉氏が、彼の手になった鉄の鷲の置物を見て『若し自分をして製作させたならば、数人の助手と三ヶ年の歳月に、およそ十万円以上の費を要するであろう』と言い、その入神の妙技には唖然として驚歎時を久しうしたという」
以上のような記録を見てみると、まず明珍吉久の龍自在置物は重要な賓客を迎えるにあたって飾りとして用いるのにふさわしい品と見なされていたらしいことがわかる。明治21年の日本美術協会の展覧会に皇后宮が行啓した際に御休憩所に飾られたのも、江戸時代以来のそのような用途に倣った可能性が考えられる。明治15年には一点が天覧に供された後、献上されたとみられることからも非常に貴重な品物であったことが推測できる。また、昭和4年入札にかけられた際にも相当な金額の入札があったことから(海野勝珉を引き合いに出しての話は多少誇張があると思われるものの)昭和に入ってからも二代明珍吉久のこの種の作品に関しての名工ぶりは伝えられていたことがわかり、入札の結果大きい方の龍が「親引き」という特筆される結果になったことや、落札された小さい方の龍も経緯は不明であるものの現在では共に福井市立郷土歴史博物館の収蔵品となっており散逸を免れていることも松平家にとって龍自在置物が特別な品物であったことを示すものだと考えられる。
清水三年坂美術館の村田館長を講師にその所蔵作品を手に取って鑑賞できるという銀座のカルチャーセンターの講座に参加してまいりました。
今回のテーマは「根付」!
…のはずだったのですが、何故か話は幕末明治の金工についてのことから始まり…
最初に出てきたのは明珍作の手長海老の自在置物です…??
個人的には嬉しかったのですが、何かおかしいなとは思いつつも誰も突っ込むことなく幕末明治の金工作品で続行です…!
先日大英図書館が100万枚以上の画像をFlickr Commonsで公開したのですが、その中で見つけたのがこの提物…!
おそらく西洋甲冑を身につけた人物は関節が動くように作られていて、鎖の代わりになっているのではないかと思います。本体は鉄製で金銀の装飾が施され顔と手は象牙で作られているそうです。人物からさらに小さな嚢物が提げられているみたいですが、もしかしたら西洋の盾の形を模しているのかもしれないですね。
西洋甲冑を題材にこんな奇抜な物が作られていたとは驚きました(しかも可動!)。こちらも西洋の兜や義手などの根付を作ってきましたが、(根付ではないにしろ)昔の物にこういう作例があることを知って勇気づけられるような思いがします(笑)
この図版が載っている1889年の "Japan and its Art"という本には他にも根付や鍔、刀装具も少し載っており、それらの図版も公開されています。
http://www.flickr.com/photos/britishlibrary/tags/sysnum001762257
先日銀座のカルチャーセンターの講座にて清水三年坂美術館の自在置物に再び触れてきました。
今回は鯉や龍などは無かったのですが、村田館長お気に入りの鉄製の明珍の蛇を手に取って見ることができました。
村田館長によれば他の自在置物の蛇よりもパーツ数が多いので完全にとぐろを巻くことが出来るとのこと。確かに尻尾の方まで大変滑らかな動きでした。蛇の自在置物は近年オークションなどで高値になっていますが、この蛇が出たらウン千万円になるのではと仰っていました。
京都の清水三年坂美術館にて開催中の企画展、「鍛鉄の美 - 鐔(つば)、鐙(あぶみ)、自在置物」を見てきました。自在置物好きなのでこの展示は楽しみにしておりました。
今回は以下のような自在置物が出ていました。
*明珍の蛇、手長海老、蟹
*好山の蟹
*好山工房の宗好のカブトムシ
あと伊勢海老が2つと小ぶりの龍があり無銘、作者不詳となっていましたが、いずれも明珍の作だと思われます。
ちょっと前のお話になりますが、グループ展の会期中ではありましたが清水三年坂美術館主催の特別鑑賞会に参加してきました。
会場は祇園にある元お茶屋のお店、食事付きです(こんな機会でもなかったら一生縁がなかった?)。実際に作品に触れることのできるこの特別鑑賞会、今回は「自在置物」!これこそ手に取ってみてこそ本当の面白さが判るものなので楽しみにしていました。
今回個人的に見応えがあったのは、高瀬好山の鉄製の蟹、好山工房の宗好作の鉄製昆虫各種、宗好の父宗信の龍、そして「美の巨人たち」で紹介された銀製の鯉といったところでしょうか。
好山の蟹は実物の沢蟹くらいのサイズで、とても繊細に作られていました。鉄でここまで細かい細工をするのはやはり相当な技術なのだろうと思います。ちなみに前日の回の鑑賞会で爪のところにあった「好山」の銘が発見されたのだそうです。
宗好作の昆虫はカブトムシ、クワガタ、セミ、スズメバチ。鉄製ですが薄く軽くシャープな仕上がり。解説の清水三年坂美術館館長によると「銀製のものは以前細い部分を折ってしまったことがあるので、鉄製のものにしました」とのお話でした。確かにそうそう折れたりするような感じはしませんでしたが、破損した場合むしろこちらの方が直せないのでは?と思いました…。そんな作品を惜しげも無く(?)多くの人に触らせてしまうとはやはり太っ腹です!
「皆さんも買うのでしたら鉄製のものが壊れないのでおすすめですよ♪」とも仰っていましたが…。その、それはなかなか機会ないと思うのですが…
宗信作の龍は長さ30〜40cmくらいだったでしょうか。冨木一門の手による龍の実物も見るのは初めて。小振りでちょっと手元に置いておきたくなるような感じです。頭が小さめで全体のバランスも良いです。
さて、やはり今回の呼び物は高瀬好山の銀製の鯉でしょう。こちらも今まで見たことがあったのは明珍の鉄製のものだけでした。
実際に触れて動かすと本当に滑らかな動き、横たえられた姿でさえもまさに「マナ板の上の鯉」という言葉を思い出してしまうくらいリアル。各々の鰭、ヒゲ、口の開閉なども確認しました。本当は口を開けて内部の構造を見てみたかったのですが、そこまで大きく開かなかったので残念ながら良く判りませんでした。口は普段は閉じた状態になるようにバネが効かせてあるようです。
実は、この鯉に関してはずっと確かめてみたかったことがあったのです。それは…