明治天皇が自在置物に興味を惹かれていたことを記した、沢田撫松編『明治大帝』(帝国軍人教育会 大正元年)中の「妙珍作の龍と蟹」という逸話について「自在置物を好んだ明治天皇」で述べたが、この逸話は、明治6年のウィーン万国博覧会、同9年のフィラデルフィア万国博覧会に派遣されるなど早くから日本の美術、工芸と関わってきた塩田真の談話に基づくものとみられることがわかった。
この談話は、『研精画誌』第65号(美術研精会事務所 大正元年)に「先帝と美術」と題してして掲載されている。「妙珍作の龍と蟹」とほぼ同じ内容のエピソードもあるが、それにはない情報もいくつか含まれている。
まず、蟹の自在置物を明治天皇に献上した人物が「骨董商の若井」となっている。これはおそらく起立工商会社の副社長も務めた若井兼三郎であろう。この蟹は若井が二百円で買ったもので、外国人に売れば六百円にはなるものであったという。若井は献上の際に購入代金分の二百円の目録を賜ったと記されているが、これは明治15(1882)年5月24日、浅草本願寺で開催された観古美術会への明治天皇の行幸に際し、龍池会から「明珍作鐵製蟹置物」が献上された折に「龍池会に金二百円を賜ひて明珍作鐵製蟹置物の献上に酬い」たという記録(1)があることと一致する。
明治天皇が松平確堂の「七寸位の鐵の打出しで伸縮龍と云はれる」ものを気に入り、献上されることになったという話の中では、「是れから頻りと上方邊でこの似せ物が出来て外國人など大分やられた様子だつた」と語られている。これはシカゴ万国博覧会などに自在置物を出品した板尾新次郎が大阪で活動し、その作品の多くが明珍の作として売られたと伝わっている(2)ことと符合しており、興味深い。京都の高瀬好山の作品も、鉄製のものはおそらく明珍の作として売られたことも多かったであろう。この話はこれらの事情を反映したものとも思われる。
また、山田宗美にも触れている。明治35年の日本美術協会展覧会への行幸の際、明治天皇は特に山田宗美の鶏の雌雄に目を止め、実際に手にとってその軽さを確かめたという。自在置物と同様に鍛鉄の技術を用いた作品として山田宗美の作品に関心を寄せていたことが窺える。
「先帝と美術」の内容は「自在置物を好んだ明治天皇」で指摘した疑問点もそのままではあるが、このように往時の自在置物をめぐる状況の一端を覗かせるものといえるだろう。
註
- 宮内庁編『明治天皇紀 第五』(吉川弘文館 1971年)
- F. Brinkley, Japan, Its History, Arts and Literature, Volume 7, Author’s Edition, Boston;Tokyo, J.B. Millet, 1902. このエディションには彫金工の名鑑も収録されている。板尾新次郎については山中商会に雇われていたとみられる記述もある。https://archive.org/stream/japanhistoryarts07briniala#page/30/mode/2up
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