鈴木長吉はシカゴ万国博覧会に出品され重要文化財にもなっている「十二の鷹」「鷲置物」を手がけ、帝室技芸員にもなっているが、これまでその人物像はほとんどわからなかった。この大日本歌道奨励会の雑誌『わか竹』の1908~9年に掲載された記事では、自身の言葉で美術について語っている。佐賀藩鍋島家の鍋島直大は大日本歌道奨励会の会長も努めており、起立工商会社以来の佐賀藩人脈ということからの掲載かもしれない。博覧会出品作の製作のような華々しい活動のみられなくなった長吉の後半生にあたる時期のものであり、当時の状況もうかがえる。非常に興味深いこの記事について、その概略を紹介したい。
鈴木長吉「將來の美術品」『わか竹』(第七号 大日本歌道奨励会 1908年)
◎現代の美術品が古代のそれに及ばぬ理由
◎其の矯正は如何にすべきか
◎現今の鋳造界
◎今後の美術家
◎鑄造物鑑定について
今日の美術品に日本各地の独自性がなくなってしまうことはその衰退の原因になると説き、各地固有の美術の発達が必要であるとし、一例に佐渡の初代宮田蘭堂とみられる人物をあげている。鋳造の現状については、ある銅像の製作のために自分の弟子の一人を派遣したところ、現場を指揮していた美術学校出身の技師長は「自分の弟子と弟子兄弟であつて而も下弟子」で技術は派遣した弟子の方が優れていたため揉めることになり、長吉が指揮することで事態を収めることになった、というような有り様を冷ややかに見ており、「大村や西郷、其の他の銅像は自分などから云はすると、何うも善い出来とは云はれぬ、一體美術品でもなく、銅を伸した飴細工のやうな物を、観る目がないからでもあらうが、切(しき)りに有り難がつて居る連中があるのは沙汰の限りである」と手厳しい。
鈴木長吉「美術鎻談」『わか竹』(第二巻第二号 大日本歌道奨励会 1909年)
この記事は冒頭に記者が築地に鈴木長吉を訪問したとの注釈があり、長吉による「富士山の模型」(三の丸尚蔵館年報・紀要 第18号によれば、長吉は明治27年に陸軍省からの委嘱で「銀製富士山二万分ノ一模型」を製作している)に触れ、客室の床の間には渡邊省第(渡辺省亭であろう)の富岳の掛軸が飾られていたとも記している。
「學校厭(ぎら)ひ」と世間の人から言われていることを認めており、美術学校には思うところがあったことがうかがえる。絶対的に否定はしないとは言いながら、「今の學校は程度が低い」ために、学校を出てすぐには相当の収入を得られず、鍛錬するための時間と金がないため劣悪な作品が生まれると指摘し、「美術学校を、卒業したからとて、其れで一個の美術家に成り得たと思ふのは、大なる誤解です」「鍋釜製作人の裡からでも、立派な美術家は出るものです」とやはり批判的である。
「先年文部省で、美術は四種類の上を出でず、即ち油畫日本畫木刻土細工、と佛國の例を取つて、日本でも左様にして、其等のみ博覧會にも、陳列しようと企てられた」ことに対し、「材料の如何に關らず、苟も人を娯(たのし)ましめ、面白いと感ぜしむる物は、美術であつて、右様に限つて了つて其等のみを、土臺と爲たならば、西洋各國の下に、皆平伏して終はなければならないのでしやう」「凡そ美術の範圍を、矢鱈に狭めるは、馬鹿な話だと思ひます」と述べている。
日本では美術学校を卒業しても作品が地金代にもならないといい、「學校も作り、美術家には補助をして、成功を助けていくと云ふのが」得策であり、「元来美術と云ふものは、一種の道楽で」「美術家は皆貧乏に限つて居たようなもの」「補助奨励の道を、講じてやるのは、最も必要である」と説く。その奨励の一例として、佐野伯(佐野常民)が自腹を切り、ある画家に画題になりそうな諸所を見物させたという逸話を引いている。
鈴木長吉「續美術瑣談」『わか竹』(第二巻第四号 大日本歌道奨励会 1909年)
まず、維新前の諸大名、長吉がこの職業に就いた頃の西洋人のような美術家の保護者は今日では存在しないと述べる。現在では珍しい作品は作られないため売れず、海外で日本の作品を模倣したものもよく出来ており、どのみち多くの作品を売ることは望めないならば、外国向けの作品は作らない方がよい、との旨を語っている。珍しいものであれば小口でも売れるので、将来はそうした方向性の大美術家を養成すべきということらしい。「到底日本人が西洋のに、真似た所で追附かぬから、矢張り日本固有の物をやつて、彼方のよりも進歩し、發展して行く様に力めなくては駄目です」と説いている。また、西洋の美術家の勉強熱心さ、対照的な日本人の不熱心さをドイツ人の例を挙げて示している。
最後は「何うせ美術なんてうものは、道楽業ですから、何か本職を持つて居つてやる可きものでしやう」「先づ工業などをやつて、それから道楽に試みたが宜いでしやう」と述べている。道楽が本職になれば理想だが、全てがそう上手くはいかないとのことである。竹童(岸竹堂と思われる)は友禅の絵を描き、是真も蒔絵を本職にして絵を描いていたとの例を挙げ「斯様な例は洋の東西時の古今を問はずよくあるものです」と締めくくっている。
なお、フィラデルフィア万国博覧会に出品された鈴木長吉の香炉の背後には岸竹堂の「大津唐崎図屏風」が配されていたとみられる。https://libwww.freelibrary.org/digital/item/1522
【追記】
起立工商会社時代の鈴木長吉についても不明なことが多いが、中村惣左衛門は鈴木長吉のもと起立工商会社の銅器製造工場で働いていたとみられる。
『人物と其勢力』(毎日通信社 大正4年)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946316/124
藝大美術館「円山応挙から近代京都画壇へ」まだ見に行ってないけど、後ろに写ってる岸竹堂「大津唐崎図屏風」出てるみたいねhttps://t.co/ShQB5Y7bi3
— 壽堂 hisashi moriyama (@sushifactory) August 6, 2019
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