東京藝術大学大学美術館「驚きの明治工藝」展には高瀬好山の珍しい作品も出品されていました。自在置物で知られる高瀬好山ですが、この二つの作品は可動部分があるとしても「瓦上の雀置物」は羽の一部、「鳳凰」は首などに限られるのではないかと思います。
以前「高瀬好山傳」について書いた記事でも触れましたが、大正天皇の京都行幸の際、雀の置物のお買上げがあったそうです。今回出品された作品に類似したものであったのかもしれません。
「鳳凰」については好山による下絵図が同時に出品されていました(冨木宗行氏蔵)。これも「高瀬好山傳」についての記事で触れていますが好山はもともと工芸に応用するために絵画を学んでおり、こうした下絵図の存在は実際の作品制作は行わなかったと言われる好山が工房で果たしていた役割の一端を示すものと言えるでしょう。
京都国立近代美術館の近年の収蔵品に高瀬好山、古市卯之助、神坂祐吉、岩村哲斎、初代山田楽全、山鹿清華らが制作に当たった「花車」という作品があります(最近では同美術館の「うるしの近代」展に出品)。この作品は神坂雪佳の図案によるもので、高瀬好山およびその工房の図案と作品についての関係を考える上で興味深いものです。
冨木宗行氏に以前伺ったのですが「花車」は宮内省に献上されたより大きな作品の試作品あるいは縮小版とのことで、その図案も現存しているとのことでした。榊原吉郎編『近代の琳派 神坂雪佳』(京都書院 昭和56年)には大きい方の花車とみられる作品「飾花車」の写真が掲載されおり、神坂雪佳の原案で京都美工院会員が合作して昭和3年に完成し「奨美会の所蔵となったが、後年日本政府からドイツ・ヒットラー総統に贈呈された」と記されています。「うるしの近代」展図録掲載の「花車」の写真と比較してみると非常に良く似た意匠であることがわかります。
この作品についての記録とみられるものは、山田楽全による京都市よりの皇室献上品の合作の記録(美術日報社編纂『日本工芸名鑑 下編』美術日報社 昭和4年)のほか、岩村哲斎も昭和3年に「奨美会より大花車の髹漆依頼」との記録(灰野昭郎「京漆器老舗『美濃屋』保存資料」京都国立博物館『学叢』第16号)が確認できます。
昭和3年の即位の大礼に際して京都府から献上された「瑞鳳棚」の制作にも高瀬好山は参加していました。この作品は山鹿清華図案、蒔絵を基調として陶磁、銅板、七宝、染色、刺繍の粋を配し「京都美術工芸の縮図たらしめ」るべく合作されたとのこと。制作に尽力したとして挨拶状が贈られた人物には好山のほかに川島甚兵衛、清水六兵衛、伊東陶山、「象彦」の西村彦兵衛、七宝の稲葉七穂、「花車」の制作にも参加した古市卯之助、神坂祐吉らの名前も見られます。
このとき京都府から同時に献上された竹内栖鳳の虎の屏風は一昨年に京都国立近代美術館「皇室の名品」展で展示されていますが、この「瑞鳳棚」は現存しているのでしょうか?
竹内栖鳳の虎の屏風とともに「瑞鳳棚」が掲載された『昭和大礼京都府記録 上巻』。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190228/156
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190228/157
高瀬好山は明治43年に京都市商品陳列所に出品していた昆虫類数点が皇太子(後の大正天皇)により「御買上」になったのを機に工房経営の苦境から脱しています。好山が図案と工芸の関係について若い頃から意識的であり、それに関する見識を持っていたことは皇室との関係が強まった後に他分野の工芸家との合作に参加することにも繋がり、そのことは結果として自在置物の制作技術の保存にも幸いしたのではないかと思われます。
板尾新次郎、高石重義、里見重義といった明治時代の自在置物制作者はいずれも一代限りであったとみられますが、彼らにとってその制作は輸出工芸品として注目されたことを契機としたものであり、技術に誇りを持っていてもそれを次代に残すという動機には欠けていたのかもしれません。自在置物制作を家業とすることで明治以降もその制作技術を伝えていった高瀬好山の活動については、皇室や京都の工芸界で大きな影響力を持っていた神坂雪佳などとの関係も含めて今後さらに明らかになっていくことを期待しています。
(この項加筆予定です)
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