岡倉天心は東京美術学校に鍛金科を新設する際、自在置物をその教育に取り入れようとしたと言われています。天心と自在置物の関係についての資料がまとまったので、とりあえず大まかに整理してみました。
(最終更新 2015年1月10日)
自在置物はその姓を近衛天皇より賜わったとの伝承を持ち、江戸時代には広く各地に分布していた甲冑師一派明珍によって多数製作されているが、作品の多くが海外に流出したこともあり昭和58年10月の東京国立博物館の特別展「日本の金工」で紹介されるまであまり知られることがなく江戸時代にどのような呼び名であったかも不明である(1)。しかし箱に「文鎮」と書かれており例外的にその名称が判明している福井の越前松平家伝来の明珍による龍自在置物は、比較的多くの記録が残っている。本稿ではそれらの記録を辿るとともに父が福井藩士であり越前松平家とも縁のあった岡倉天心が欧州視察で明珍の作品を目にしたことにより、甲冑師による工芸品という特異な存在である自在置物が明治期に美術品としてどのように再評価されたのかを考察してみる。
越前松平家伝来の龍自在置物
明珍吉久は越前に住した明珍一派の甲冑師で松平家の代々のお抱え工であった。福井市立郷土歴史博物館に無銘ではあるがその作とみられる大小2つの鉄製龍自在置物と一対の海老の自在置物があり、その他にもどの代の吉久の作かは不明であるが複数の鯉の自在置物の作品が残っている(2)。大小の龍の内、小さい方の箱には「文鎮」と書かれており『越前人物志』(福田源三郎 明治43年)において「雌雄龍の鉄製文鎮」として二代明珍吉久の作と伝えているものと同一であると思われる(3)。『平成25年秋季特別展 〈甲冑の美〉図録』(福井市立郷土歴史博物館 平成25年)中の「鉄製龍自在置物」の解説には「正徳四年(一七一四)、八代藩主松平吉邦のとき、祝儀のため江戸の藩邸に幕府老中たちを招いた際の座敷飾の記録に『文鎮 龍』とあり、自在置物がすでに用いられていたことがうかがえる」という記述がある。
『日本美術協会報告』(明治21年6号)には皇后宮陛下が行啓した明治21年5月の日本美術協会による展覧会を伝える記事があり「御休憩所ニ充タル一室」の「床脇ノ御棚ニハ松平茂昭出品明珍作鋼銕製伸縮龍」を飾ったとの記述が見られる。松平茂昭は越前福井藩の旧藩主であり、出品された「明珍作鋼銕製伸縮龍」は前述の明珍吉久作とされる龍のいずれかである可能性が高いと考えられる。
昭和4年の『旧越前福井城主松平侯爵家御蔵品入札目録』には「明珍作鐵龍置物」(図1)と「明珍作鐵龍小置物」(図2)が記載されている。写真から判断してこれらは福井市立郷土歴史博物館の2つの龍(図3)と同一のものと思われる。「明珍作鐵龍置物」の写真には「三個之内中は宮内省献上品」との記述が添えられ、もとは大中小の3つの龍があったことが推測できる。さらに「参照」として文書の写真(図4)も載せられている。これは宮内卿徳大寺実則から松平茂昭の先代の福井藩主であった松平春嶽に宛てた書状と考えられ、天覧に供された「銕製竜明珍一個」を明治天皇が手許に置きたいと思し召している、ということを伝えるものとみられる。その内容は以下の通りである。
銕製竜明珍一個
右被供
天覧候処
思召被為叶候間
御留置被遊候
条此旨小官より可
申演
御沙汰候仍右之段
意
得貴□候敬具
十二月廿三日
宮内卿実則
松平正二位殿
福井県文書館 「文書館叢書第8巻『越前松平家家譜(かふ)』慶永5 URL: http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/2010bulletin/shousho8_03.pdf」の明治15年12月19日の記事中に春嶽が参内した際(天覧に供した上で明治天皇がお望みならそのまま献上すべく)持参した「鉄製竜明珍作壱箱」を宮内卿に預けたという記述がみられるため、「十二月廿三日」と記されたこの書状は明治天皇がそれをそのまま手許に留めておきたいとのご意向であることを伝えたものだと考えられる。また「福井市立郷土歴史博物館名品図録」(福井市立郷土歴史博物館 昭和58年 PDF)には大きい方の龍が明珍吉久作「鉄製龍の置物」として記載されており、その解説にも二代明珍吉久作のものとして「松平家より明治天皇に献上された龍の置物」があるとの記述が見られる。先に触れた『旧越前福井城主松平侯爵家御蔵品入札目録』中の記述に基くならば、その献上された「龍の置物」は大中小の3つ存在したと思われる龍の内の「中」の龍であることが考えられる。
『美術商の百年 東京美術倶楽部百年史』(東京美術倶楽部 平成18年)によればこの昭和4年の旧越前福井城主松平侯爵家御蔵品入札において「明珍作鐵龍小置物」は二千八百三十円の値で落札され、一方「明珍作鐵龍置物」は「五万余円の札が入ったに関わらず親引き」となったという。同書によればこの入札の最高値は「碪青磁浮牡丹耳付花生」の三万八千八百円であり、それと比較しても相当の高額な入札であったことがわかる。この「親引き」となった明珍作の龍置物について同書では『書画骨董雑誌』(昭和4年4月号)の明珍吉久を紹介する記事を引用しており、次のような記述が見られる。
「越前松平侯爵家の蔵品入札の際に、二代明珍吉久作の鉄製屈伸自在の龍の小置物が在ったが、五万余円の札が入ったにもかかわらず、意に満たなかったのであろう、親引きとなって再度松平家の庫中へ戻ることになり、鑑賞家の目を睜らしめた」
「二代小左衛門吉久は越前松平家抱えの甲冑師で(中略)名工の聞こえ高く(中略)海野勝珉氏が、彼の手になった鉄の鷲の置物を見て『若し自分をして製作させたならば、数人の助手と三ヶ年の歳月に、およそ十万円以上の費を要するであろう』と言い、その入神の妙技には唖然として驚歎時を久しうしたという」
以上のような記録を見てみると、まず明珍吉久の龍自在置物は重要な賓客を迎えるにあたって飾りとして用いるのにふさわしい品と見なされていたらしいことがわかる。明治21年の日本美術協会の展覧会に皇后宮が行啓した際に御休憩所に飾られたのも、江戸時代以来のそのような用途に倣った可能性が考えられる。明治15年には一点が天覧に供された後、献上されたとみられることからも非常に貴重な品物であったことが推測できる。また、昭和4年入札にかけられた際にも相当な金額の入札があったことから(海野勝珉を引き合いに出しての話は多少誇張があると思われるものの)昭和に入ってからも二代明珍吉久のこの種の作品に関しての名工ぶりは伝えられていたことがわかり、入札の結果大きい方の龍が「親引き」という特筆される結果になったことや、落札された小さい方の龍も経緯は不明であるものの現在では共に福井市立郷土歴史博物館の収蔵品となっており散逸を免れていることも松平家にとって龍自在置物が特別な品物であったことを示すものだと考えられる。
(図1)
『旧越前福井城主松平侯爵家御蔵品入札目録』より「明珍作鐵龍置物」。
「三個之内中は宮内省献上品」と記されている。
(図2)
『旧越前福井城主松平侯爵家御蔵品入札目録』より「明珍作鐵龍小置物」。
(図3)
東京国立博物館「自在置物―本物のように自由に動かせる昆虫や蛇―」展示時の福井市立郷土歴史博物館蔵の2つの龍自在置物。
(図4)
『旧越前福井城主松平侯爵家御蔵品入札目録』より「明珍作鐵龍置物」の写真の下に「参照」として掲載の文書。
越前松平家と岡倉天心
岡倉天心(覚三)は岡倉覚右衛門の子として文久2年12月26日(西暦1862年2月14日)に横浜で生まれた。覚右衛門は福井藩の下級藩士であったが、才を認められ横浜の福井藩商館「石川屋」の手代となりその際に町人に身分を変えている。
『生誕150年・没後100年記念〈岡倉天心展〉図録』(福井県立美術館 平成25年)には「横浜に生まれながらも、両親が福井の出身で、乳母をはじめ周囲に福井人が多い環境で育った岡倉天心は手紙に『郷里福井』と書くなど、福井を自分の故郷と考えていた」との記述がある。同図録には天心の父・覚右衛門の福井藩における仕事や、その出自なども含めた天心と福井の関わりについての資料が多数掲載されており、その中の旧藩主松平春嶽から覚右衛門に宛てた病状を気遣う手紙についての解説では「藩士時代にはお目見得すら許されないほど低い身分の覚右衛門だったが、商館勤めとなって以後、特に明治以降は春嶽の福井墓参にも付き従うなど、親しい関係にあったようである」としている。また掲載の論文「岡倉天心の父親について」(長野栄俊)では、明治24年の春嶽の一周忌に旧藩士が菩提寺に石灯籠を寄進した際の寄進者碑に「岡倉覚三」の名があることに触れており、これらは当時の岡倉家と松平家の関係を端的に示すものと言える。それらからは春嶽の跡を承けて松平家の当主になっていた茂昭と天心の間にも繋がりが保たれていたであろうことも推測できる。岡倉天心「日本美術史」(平凡社 平成13年)には周文の「松平茂昭氏蔵六曲屏風」が取り上げられており「『國華』(6号)に載す 」とあることから、こうした美術品を通じた交流もあったものと思われる。
「サウス・ケンシングトンの鷲」のもたらした影響
岡倉天心は明治28年東京美術学校に鍛金科を設置するにあたり、明治26年のシカゴ万国博覧会に鷲の自在置物を出品して注目されていた板尾新次郎に教師になるよう依頼している(4)。「近代日本における金工家教育に関する一考察 - 帝室技芸員と東京美術学校を中心に - 」(『茨城大学五浦美術文化研究所報 第13号』横溝廣子 1991年 pdf)ではその鍛金科設置時の事情が詳述されており、後に鍛金科の教授となり帝室技芸員にもなる平田宗幸が当時東京美術学校で依嘱品の製作に当たっていたにもかかわらず岡倉天心は板尾新次郎に教官を依頼していたとある。その理由については天心が欧州視察旅行の際、サウス・ケンシングトン美術館(現在のヴィクトリア・アンド・アルバート美術館)で日本からの展示品の目玉であった明珍(ミヨウチン・ムネハル)の作による鷲の置物(図4)を目にしたとみられることを取り上げ、板尾新次郎も同様の作品を作っていることから「天心が鍛金科の理想としてこういう自在のような工夫を凝らした作品も求めていたとは言えないだろうか」と推測しているが、ここで論文中に引用されているそのサウス・ケンシングトン美術館に関する記事と鷲の置物についての注を見てみることにする。
「今日の日本に美術学校を設立するは或は早計に失せずやとの懸念もありて、先ず欧州美術界の現況を巡覧せしむることに決し、浜尾新、岡倉覚三氏等を欧州に派遣したり。然るに英の龍動なるサウス、ケンシングトン博物館にて、端なくも日本人明珍といふものの作にかかる銅彫の鷲、妙技一等室に陳列せられあるを発見し、ここにはじめて我が美術の真価を確認し、いよいよ美術学校設立の礎を固くしたりといふ」(『早稲田文学』第二期第二号 明治29年1月22日)
「LIST OF OBJECTS IN THE ART DIVISION, SOUTH KENSINGTON MUSEUM, Acquired during the year 1875 四六頁に十六世紀、ミヨウチン・ムネハル作の岩上で羽を広げ、沢山の鉄片で作られた鷲の記述がある。その購入価格がけた違いに高く、他は数ポンドから百数十ポンド程度であるのに対して、明珍の鷲は千ポンドであり、その年の年間購入費用(購入品八八三点)の約七分の一に当たる」
明珍の手による作品が海外で非常に高い評価を受けているのを目にし「美術学校設立の礎を固くしたり」というほどに天心が感銘を受けたとしたならば、父が仕えた越前松平家のお抱え工であった明珍吉久が明治天皇への献上品を含め多数の自在置物の作品を残しているのを天心も知っていたためということが考えられる。天心が欧州視察を終えて帰国(明治20年10月)した翌年、前述したように松平茂昭は龍の自在置物を日本美術協会の展覧会に出品している。「日本美術協会報告」(明治21年7号)にはこのときの出品物の詳細が記載されており、茂昭以外にも自在置物の出品があったことやサウス・ケンシングトンの鷲に関する記述も見られる。以下がその箇所の抜粋である。
伯爵松平茂韶君ノ出品セラレタル明珍作魚鱗ノ具足、葵章形ノ兜、鋼鐵製同作ノ龍ハ頗ル奇異ナルモノナリ明珍數代ノ中此伸縮自在ノ作ヲナセルハ小左衛門吉久ト稱シ元綠ノ初年越前家ニ召抱ラレタルヨリ世ニ越前明珍ト呼フ此具足ハ同人ガ元禄六年ニ製作セシモノナリト云エリ胴袖草摺トモニ薄鐵ヲ魚鱗状ニ鍛ヒ裏面ニ鎖ヲ以テ綴合セタル者ニテ屈伸ノ自在ナル實用上ニ於テモ必ズ有効ノ品ナルベシ同作龍ノ置物モ亦屈伸自在ナリ是ト同様ノ出品アリシハ松平直徳君ノ鳳凰ノ置物益田孝君ノ海老ノ置物等ナリ此明珍吉久ノ作レル鋼鐵屈伸自在ノ鷙鳥ノ置物ハ先年松平君ノ旧藩士ノ家ヨリ出デ骨董商ノ手ニ帰シタルガ轉旋ノ海外人ノ有トナリ今現ニ英國ケンシングトン博物館中ノ常備品トナレリト聞ク其先藩士某ノ估却セシ價ハ十圓ニモ充タザリシニ該館ニ購入セシ時ハ英貨五千磅ニ昇レリト云海外人ノ我美術ヲ貴重スル此類往々ニシテアリ以テ古物保存ノ必要ナルヲ知ルベシ
この展覧会への松平茂昭の龍自在置物の出品は先に述べた松平家との関係から天心自身による松平茂昭への働きかけがあった可能性もあると思われるが、日本美術協会会頭であった佐野常民もまた明珍作の自在置物のような作品に関心を寄せていたとみられる点についてまず触れておく。
この展覧会の出品物に関する記述中には龍と同様に「屈伸自在」の置物として松平直徳が鳳凰、後の「鈍翁」である益田孝が海老を出品したとある(5)。サウス・ケンシングトンの鷲の置物について触れていることや天心の帰国から間もない時期であることからも、この展覧会に複数の自在置物が同時に出品された背景には天心の欧州視察の影響があると推測できる。日本美術協会会頭の佐野常民はこの抜粋した部分と類似した内容を美術展覧会褒賞授与式における演説で語っており(6)、後述する明珍吉久の魚鱗の甲冑とともにサウス・ケンシングトンの鷲に触れて非常に称賛する言葉を述べている。サウス・ケンシングトン博物館が鷲の置物を高額で購入したことについては「其初は尋常一様の鋼鐵なるに名工の手を経て優逸の美術品となれば此の如き高價を發す美術の國富を増殖する實に鴻大なりと謂ふべし、此の如き名品の海外に出しは遺憾なりとは雖も、之に由て日本美術家明珍の名宇内に顕れ従て日本の光輝を發揚せしは一大快事ならずや」と述べており、金銀などの高価な材料を使うことなく外貨を獲得できる工芸品である点に注目していることや、明珍の名が世界的になったことを歓迎していることがわかる。
佐野常民は佐賀藩士であったが、佐賀藩藩主であった鍋島家にも明治時代に天覧に供されたとの文書が付属した明珍作龍自在置物が伝来し現存している(7)。この天覧への関与については不明ではあるが、佐賀藩の名士であった佐野常民はこの龍自在置物の存在を知っていたと思われる。そうだとすれば常民も海外で明珍の作品が破格といえる評価を受けていることに対し、岡倉天心同様に特別な感銘を受けた可能性が考えられる。美術品の輸出振興を目指していた日本美術協会にとって非常に高額で購入されたという事実が重要であったことはもちろんだが、越前松平家の龍自在置物が天覧に供されたのち献上されたこと、さらに明珍姓が天皇から賜わったものとの伝承があることも宮内省との関係が深い同会の会頭であった常民にとって注目に値することであったと思われ、この明治21年の展覧会において明珍の作品が多数出品される要因になったと考えられる。また明治18年開催のニュルンベルク金工万国博覧会において「四支活動スル銅製鐵製ノ海蝦及ヒ鐵製蟷螂」という自在置物とみられる作品が金牌を受賞していること、制作にあたり実際に鷲を飼育観察したという写実的な鈴木長吉作の青銅鷲置物(起立工商会社出品、同じく金牌を受賞)が博覧会会場である博物館の館長の目に留まり、急遽展示場所を移動するなど特に注目を集めていたことが『金工万国博覧会報告』(山本五郎
編 明治20年)に記載されているが、この博覧会で自在置物や写実的な鷲の作品が先行して評価されていたことも日本美術協会の展覧会での明珍の作品への注目と後の明治26年シカゴ万国博覧会への板尾新次郎作の鷲の自在置物の出品につながったとみられる。
板尾新次郎は明治24年の日本美術協会春期展に後援者の山東直砥出品として鷲の置物を出品し銀牌を受賞しているが、岡倉天心に鍛金科教師の適任者として板尾新次郎を紹介したのが、日本美術協会会員であったこの山東直砥である(8)。なお、この明治24年の日本美術協会春期展に出品された板尾新次郎の自在置物は展覧会へ行幸した明治天皇の玉座の飾り付けに使用されているが、他に使われた作品には後藤祐乗の卓や牧渓の画、狩野元信の屏風などがあり(9)、そのような古美術の名品と同列の扱いは奇異にも感じられる。
板尾新次郎の評価については一介の鋳金工であったが蒸気船の模型を独力で制作したことで認められ近代的な工作技術を学ぶ機会を得た(10)というその経歴と「からくり儀右衛門」と呼ばれた田中久重のような技術者とも交流があり佐賀藩士であったとき精錬方主任として蒸気機関の制作に携わったことが知られている佐野常民の経歴との関連も興味深いところではあるが、明治天皇の玉座周辺に作品が飾られるほどの厚遇の理由となり得ることとして、明治天皇御自身が自在置物に特別な関心を持たれていた可能性があることについて触れておきたい。先述の「越前松平家家譜」にみられる明治15年の越前松平家の龍自在置物の献上の経緯を詳細に見てみると、松平春嶽は「例月の天機伺として」12月15日に参内して間もない19日にわざわざ龍自在置物だけを持って再び参内し、宮内卿にそれを渡している。「従来御所蔵之鉄製明珍作壱箱御献上ト申ニハ無之、天覧ニ御備被遊度、若シ叡慮に相叶候ハヽ御留置被下候様御稟達相成候処、宮内卿御請取ニ付御退省被遊候」という記述から献上の意図はないことを表明していることがわかるが『旧越前福井城主松平侯爵家御蔵品入札目録』所載の宮内卿の書状にあるように「御留置」という形で結果的には献上と同じことになったとみられる。このような経緯は龍自在置物が松平春嶽にとって献上を躊躇わせるほどに重要な品であったことを示すと同時に、明治天皇が特に関心を持たれてそれを所望されたことを意味するものとしてとらえることができよう。明治21年日本美術協会の展覧会の皇后宮の御休憩所にも龍自在置物が置かれたことや、鍋島家の龍自在置物にも天覧の記録があることもおそらくこの献上と無関係ではないと思われる。
この龍自在置物の献上の経緯により欧州視察で明珍作の鷲を見たときに受けた岡倉天心の感銘もより強いものになったと思われるが、ここでこの展覧会の出品物と天心との関わりに目を向けてみたい。松平茂昭は龍の他に「明珍作魚鱗ノ具足」「葵章形ノ兜」も出品しているがこれらは後年天心が中心となって編纂した『稿本日本帝国美術略史』にも記載されているものである。以下はその明珍吉久の項の抜粋であるが、自在置物についても触れられている(下記URLにて近代デジタルライブラリーで該当箇所が閲覧できる)。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849674/320)
明珍吉久、小左衛門といふ、元祿の初年越前侯に抱へられ、世に越前明珍と稱せらる、甲冑の外鐵製にて龍鳳の類伸縮自在の作をなし、何れも精巧を極む。
魚鱗具足並に兜 侯爵 松平茂昭蔵
越前明珍吉久の作にて、胸板袖は魚鱗形をなし、兜は松平家の紋なる葵形にて造り、眉庇には龍の打出しあり、堅實精巧を極めし作なり。
「魚鱗具足」は胴と袖が自在置物と同様に鋲を使って小さな鱗状の部品を連結し伸縮できるような構造で『平成25年秋季特別展 〈甲冑の美〉図録』(福井市立郷土歴史博物館
平成25年)によれば江戸後期に書かれた七代藩主吉品の伝記「探源公行状」に越前家の重宝と記されており、天心の父が仕えた松平春嶽も「御召具足」として用いた可能性があるとのことである。『稿本日本帝国美術略史』に徳川氏幕政時代の甲冑工として記載があるのは明珍宗察と明珍吉久のみであるが、明珍吉久への評価は江戸時代中期以降甲冑の需要が減少し甲冑師が衰微していく中(11)、工夫を凝らした精巧な作を作ったことに対するものであると思われる。自在置物と同様の構造を持つこのような甲冑の名品が松平家に存在していたことも、そうした技術の継承を計るべく板尾新次郎に鍛金科の教師となるよう依頼した要因の一つになったことが考えられる。
なお、日本美術協会の明治21年の展覧会の出品物に関する記述と同展覧会における佐野常民の演説、さらに先述の海野勝珉が驚嘆したという鷲に関する記述においても、サウス・ケンシングトン博物館が購入した鷲は明珍吉久作であるということになっている。『越前人物志』(福田源三郎
明治43年)の中でも明珍吉久の鷲がロンドンの博物館にあるという記述がある。現存する明珍吉久作の鳥の自在置物は確認されていないとみられるが、当時実際に存在していた可能性は考えられる。サウス・ケンシングトン博物館にその作品が高額で買い取られたというのは明らかな誤りと考えられるが、この「サウス・ケンシングトンの明珍吉久の鷲」の話は後年まで伝えられていることから、結果として明珍吉久の名を高めることになったと思われる。
岡倉天心は平田宗幸のような適任者がいながら自在置物の作品で注目されていた板尾新次郎を鍛金科教師にすべく働きかけたにも関わらずその自在置物の作品について、あるいは明珍吉久の自在置物や魚鱗具足について直接言及した例は管見の限り見当たらないが、それらへの言及は福井藩士であった父への言及につながるものであったため意図的にそれを避けた可能性が考えられる。「岡倉天心の父親について」(長野)によれば「天心の父親については、天心自身がほとんど何も語っていないため不明なことが多い」とのことであり、戦後の研究ではその父親像の検証は「身内からの所伝に加え、福井藩や幕末期横浜の史料が用いられるようになった」としている。天心の父は商館勤めになったとき町人の身分に変わったため天心もまた士族ではなかったが、同論文では先に述べた春嶽一周忌での石灯籠の寄進者碑の話のほか、天心が「自筆履歴書」に「茨城県平民」としながらも「旧福井藩士」と併記したことや、ビゲロウとロッジによる天心の追悼文に天心は福井生まれで父は士族だったと記されていることを挙げ、「父が町人となってのちに誕生した天心覚三が、その後も武士の出自に誇りを持っていたらしいことこそが、問い直されるべき問題なのではないだろうか」と提起している。越前松平家と同様に旧藩主が伝来の龍自在置物を所蔵していた佐賀藩の藩士であった佐野常民が明珍の作品を称賛しているように、天心が自らを「旧福井藩士」と考えており、そのことを誇りとしていたならばサウス・ケンシングトン博物館で明珍作の鷲を見たことで「美術学校設立の礎を固く」するほど感銘を受けたとしても不思議はないと考えられる。東京美術学校の鍛金科に板尾新次郎を教師として招聘しようとしたことや同科の創設がもともとは刀剣制作の技術の継承も目指したものであったとみられる(12)ことも、天心のそのような一面を示していると考えることができる。
結局板尾新次郎は健康上の理由から東京美術学校鍛金科の教員になることを辞退し(13)、作品の多くが海外に流出した自在置物は日本国内では長らく一般には知られないものになってしまった。しかし明珍吉久に関しては「サウス・ケンシングトンの鷲」の作者であるとの話が流布されたことや、後年『稿本日本帝国美術略史』に記載されたこともその名を高めることにつながったと思われ、比較的に多くの作品が国内に留まっていることの原因となったと推測できる。
(図4) "Japan nach Reisen und Studien" 1881 より
http://collections.vam.ac.uk/item/O75790/incense-burner-koro-figure/
Victoria & Albert Museum 公式サイトの作品解説ページ 。解説から実際は香炉であったことがわかる。
結
名家とそのお抱えの名工の作品という端的な事例ではあるが、越前松平家伝来の自在置物についての記録は武士階級が甲冑師が技巧を凝らした自在置物を甲冑そのものと同様に大切なものとして扱っていたことを推測できる貴重な例と言える。越前松平家と関わりの深かった岡倉天心が東京美術学校に鍛金科を新設する際に目指した方向性はその出自に影響された部分が大きいと思われ、海外で明珍による作品が高い評価を受けているのを目の当たりにしたことにより自在置物を日本美術の中に位置づけ、その技術の継承を計ろうとしたものと考えられる。天心によるそのような試みを再評価する観点、また天心の出自と深い関わりを持つ特異な工芸品という点から見るならば、流出を免れた明珍吉久の龍を初めとしたいくつかの作品に加え、海外から里帰りした明珍宗察の龍(14)という、天心が関わった日本初の日本美術史『稿本日本帝国美術略史』に名が記された甲冑師の手になる自在置物の優品がともに国内に存在し鑑賞の機会があることは大変意義深いことだと言える。
また日本美術協会会頭であった佐野常民もその出自から岡倉天心と同様の理由で海外における明珍の作品への高い評価に関心を示したと考えられるが、同時にその輸出工芸品としての優位性にも着目していたと思われる。さらに天皇より明珍姓を賜わったという伝承の存在は日本美術協会の国粋主義的な傾向にも合致するものであり、明治天皇御自身もまた自在置物に特別な関心を持たれていたとするならば、そのことは宮内省、皇族との関係が深い日本美術協会にとっても注目すべきことであったと推測できる。明治期の美術品としての自在置物の評価を再考するにあたり、このような点も検討の余地があると考えられよう。
注
1. 原田一敏『別冊緑青 vol. 11 自在置物』(マリア書房 平成22年)
2. 注1と同文献。明珍吉久の龍、海老、鯉が掲載されている。
3. 注1と同文献。
4. 『MUSEUM 東京国立博物館美術誌 152号』所載
下村英時「奇工板尾新次郎伝ー恐るべき伝統技術の闘争史ー」に詳述。
板尾新次郎は和歌山生まれの金工家でもとは鋳金工であった。
5. 『美術展覧会出品目録』(松井忠兵衛, 志村政則 編 明治21年)にも
このときの出品物の記載がある。
以下は近代デジタルライブラリーで閲覧できる該当箇所のURLである。
松平直徳 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849734/25
松平茂昭 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849734/40
益田孝 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849734/41
なお、これらに先立つ明治期の美術展覧会への自在置物の出品としては 竜池会 編 『観古美術会出品目録 第4回 2号』(明治16年)記載の松平確堂「明珍作鐵屈伸 龍文鎮」が確認できる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849465/22
越前松平家の龍と同様「文鎮」という名称であることと松平春嶽による龍の献上 の翌年の出品であることが興味深いところである。
6. 福田源三郎『越前人物志』(明治43年)明珍吉久の項に岡部宗久『日本美術論』
より佐野常民の演説が引用されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993479/507
7. 注1と同文献。
8. 注4と同文献。シカゴ万国博覧会に出品された鷲の置物の出品人は
「東京の斎藤政吉」となっているが「新次郎の作品をシカゴの博覧会に
送ったのも山東だった」との記述もある。
9.『絵画叢誌 第五十巻』(明治24年)。
「板尾新次郎作の屈伸自在なる鷹の置物」とあり鷲ではなく鷹であったと思われる。
10. 注4と同文献。
11. 『稿本日本帝国美術略史』の徳川氏幕政時代の金工の項の序文には
「當代の甲冑工は前豊臣時代より漸く衰微し」とある。
12. 横溝廣子「近代日本における金工家教育に関する一考察 - 帝室技芸員と
東京美術学校を中心に - 」(『茨城大学五浦美術文化研究所報 第13号』
1991年 pdf)
13. 注4と同文献。
14. 注1の文献に英、スウェーデンのコレクションを経て東京国立博物館蔵に
なったとの解説がある。
コメントをお書きください
中井けやき (水曜日, 15 6月 2016 11:23)
山東直砥について調べています。山東が板尾新次郞の作品を万博に出品したとしりましたが、二人の関係がよく分かりませんでした。紀州出身で応援したと推測できるくらいで。
でも、貴ブログで知ることができ大変参考になりました。ありがとうございます。